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第二十節 圧倒的多数を相手に勝利する方法 【大罪人の娘・前編(無料歴史小説) 第弐章 戦国乱世、お金の章】
北畠顕家という天才に憧れ、電光石火の早さを追求し続けた織田信長。
「この戦国乱世を齎したのは、『人』自身にある。
己の都合ばかりを優先し、私利私欲で、秩序を守らず、学ぶことを怠り、簡単に人を裏切る、誠実さに欠けた薄汚い奴ら。
そもそも。
人は、かくも醜い生き物であったのか?
これが人のあるべき姿だとでも?
いや違う!
人とは本来、もっと美しいものであったはず。
決めたぞ。
わしは、北畠顕家公の志を継ぎ……
京の都を目指す!
この日ノ本を、必ず、美しい国へと変えて見せよう」
信長は、上洛戦[京都攻略戦という意味]の準備を開始した。
◇
その、およそ3年前。
京の都で前代未聞の事件が起こっていた。
将軍の足利義輝が、三好一族に惨殺されたのだ。
元々。
三好一族は阿波国[現在の徳島県]の国衆[独立した領主のこと]に過ぎなかったが……
三好元長とその息子・長慶という優れた当主が二代も続くと状況は一変する。
実力に優れ、人望もあった2人は、最終的に現在の関西地方すべてを支配するまでに勢力を拡大させた。
戦国時代初の『天下人』という称号すら手にする。
そんな矢先……
三好一族に不幸な出来事が頻発した。
一族の優れた人物が、次々と不運な死を遂げていったのである。
結果として長慶は精神を病んで早死し、優れた人物が不在となった一族は急速に弱体化していく。
この状況を嘆く者たちは、不運な出来事を将軍・義輝の仕業だと一方的に決め付けた。
「奴は我らの権勢を妬んでいたと聞く。
己の権力強化のために薄汚い方法を使ったのじゃ!」
と。
誰かが流したデマを真に受けて失敗を犯すという、現代でもよくあるパターンだが……
優れた人物が不在だとこうなってしまうのだろうか?
三好一族の一方的な思い込みが暴走し、将軍殺害という前代未聞の事件を引き起こす。
デマを流して人々を間違った方向へ導く者の罪深さがよく分かる逸話だろう。
もちろん不運な出来事の真相も、デマを流した黒幕の正体も、今や全てが闇の中だ。
一方。
大和国[現在の奈良県]にいた義輝の弟・義昭は、身の危険を感じて越前国[現在の福井県]まで逃亡する。
兄の仇を討って次の将軍となることを願い、各地の大名へ書状を送り始めた。
勿論。
この書状は、美濃国[現在の岐阜県]を制圧したばかりの信長の元にも届く。
信長は、これを顕家の志を継ぐ機会到来と考えたのである。
◇
1568年9月7日。
念には念を入れて準備を整えた信長は、6万人もの大軍を率いて出撃した。
敵をできるだけ『少なく』するため……
徳川家康と浅井長政に加え、三好長慶の忠実な家臣であった松永久秀という男も味方に付けていた。
加えて武田信玄、上杉謙信などの有力大名にも事前に承諾を取っている。
敵を少なくしたことが功を奏し、京都攻略戦は信長の圧勝に終わった。
京都を支配していた三好一族を四国徳島まで追い払い、足利義昭を第15代将軍に就任させ、室町幕府の秩序を立て直すことに成功したのである。
◇
ところが。
両者の関係は急速に悪化してしまう。
信長が幕府への激しい苛立ちを『制御』できなくなったからだ。
帝[天皇のこと]の扱いが杜撰であること。
大名に援助という名の賄賂を要求していること。
貪欲にも公家[かつての貴族のこと]や寺社の領地や財産を横領していること。
働いている者たちに支払う給料が不公平であること。
飢饉などで値上がりしている地域へ米を転売して金儲けをしていること。
このどれもが、秩序を重んじる信長を激しく苛立たせる行為であった。
幕府もまた、あれこれ意見を言う信長が疎ましくなった。
「信長め……
尾張の田舎大名の分際で、偉そうに理想を並べおって。
鬱陶しいわ」
と。
両者の関係は完全に破綻した。
◇
これを見計らったかのように……
強力な大名が幕府を操り始める。
甲斐国[現在の山梨県]を含む4ヶ国を支配し、東日本最強の大名とも謳われた武田信玄である。
「我らは越前国[現在の福井県]の大名である朝倉義景殿と盟約を結び……
武田軍が東から、朝倉軍が北から信長を攻める手筈を整えております。
今こそ信長を討つ『好機』ですぞ!」
信玄の巧妙な策略に、幕府はまんまと嵌まった。
こう宣言して『信長討伐命令』を発令する。
「織田信長は……
一大名の分を弁えず、幕府の統治に難癖を付け、再三に渡って妨害し続けた。
これらは幕府に対して謀反を起こしているも同然であろう。
全ての『大名』は、謀反人の信長を討伐せよ」
と。
この命令で信長は窮地に陥った。
◇
「全ての大名は、謀反人の信長を討伐せよ?
父上。
これは、ほとんどの大名を相手に戦わざるを得なかった……
北畠顕家と『同じ』窮地に陥ったということではありませんか」
「うむ。
どんな天才でも、これほどの圧倒的多数が相手では厳しい」
「父上はこう仰いました。
『圧倒的多数を相手に勝利する方法は、2つある。
敵の中の誰かを欺き、身内争いを引き起こさせて弱体化させるか。
あるいは……
敵より強い誰かを欺いて、己の味方にするかだ』
と」
「それこそが勝利の秘訣よ。
信長様は、読み書きを上手く使って圧倒的多数を相手に勝利しようと考えられた」
「読み書きを上手く『使って』?
具体的に何を?」
「幕府の討伐命令が全国の大名へと届けられている真っ最中……
信長様はある手紙を書き、それをひたすら書き写すことを命じられたのだ」
「ひたすら書き写す?
どんな手紙を?」
「それは……
『異見十七ヶ条』と呼ばれたものよ」
「異見十七ヶ条なら、聞いたことがあります。
莫大な銭[お金]を投じて大勢の人に書き写させたとか」
「何百、何千どころか……
何万もな」
「な、何万も!?
それほど書き写させたのですか?」
「そうだ。
それを日ノ本中へ送り付けたという」
異見とは、異なった見解という意味がある。
幕府が発令した内容とは異なった見解を述べたためにそう呼ばれた。
その内容は、幕府への非難を17項目も並べた部分から始まる。
帝を杜撰に扱い、大名に援助という名の賄賂を要求し、貪欲にも公家や寺社の領地や財産を横領し、働いている者たちに支払う給料が不公平で、飢饉などで値上がりしている地域へ米を転売して金儲けをしている、などだ。
こう続けた。
「『将軍は欲深いから人の忠告を聞かない』
民は皆、こう申しているぞ。
しがない農民でさえ、将軍を悪御所と呼んで軽蔑しているそうな。
帝より日ノ本の支配を任せれているはずの将軍が……
民から軽蔑され、陰口まで叩かれているのはなぜか?
幕府の政に大きな問題があるからでは?」
こうして人々の心に幕府の支配に対する疑念を植え付けつつ……
更に煽っていく。
「民よ。
飢饉で飢えている人々を尻目に、米の転売で銭[お金]を儲けている幕府を見て、どう思う?
幕府が帝を敬うどころか杜撰に扱っているのを聞いて、どう思った?
幕府が貪欲にも賄賂を要求し、弱い者から領地や財産を奪っていることを知って、どう感じた?
こんな腐り切った幕府に……
日ノ本を支配する『資格』があると思うか?」
こう締めくくった。
「民よ。
いつまで寝ている?
いい加減に目を覚ませ!
この異見十七ヶ条を読んで、考えよ。
本当の悪人は、この信長か、それとも腐り切った幕府なのか?」
と。
この手紙を日本中の至るところにばらまいたのだ。
◇
「凛よ。
読んだ者たちはこう考えなかった。
『どういう目的で大量に書き写され、ばらまかれたのか?』
と」
「えっ!?」
「これを読んだ民は……
正義感に駆られて拡散し、より多くの民に広めた。
幕府を非難する声が世に満ち溢れ、幕府の名は地に堕ちた」
「父上!
民は、事実なのか調べもせずに全て信じ込んだと?」
「うむ。
大勢の民が、信長様を称賛する声を上げた」
「国を治める大名といえども、ここまで大きくなった民の声を無視できません。
幕府の命令に従って兵を出すことができなくなったのでは?」
「その通りだ。
凛」
「要するに。
信長様は、民を巧妙に『操る』ことで大名たちの動きを封じたのですね」
「そうだ。
正しいか間違いかの区別ができない無知な愚か者は、いつも誰かに、いとも簡単に操られるのが世の常であろう」
「もしや!
父上が、信長様にこの方法を『教えた』のではありませんか?」
「そうだ。
元々、わしは幕府の家臣であった。
幕府の内部には精通している」
「……」
【次節予告 第二十一節 武器商人を欺くために起こした戦争】
織田信長は、名門である今川家の当主にして海道一の弓取りとも呼ばれた名将……
今川義元に対して露骨な挑発を行いました。
義元の重臣がいる鳴海城と大高城の周囲に砦を築いて補給を断ち、餓死寸前へと追い込むのです。