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本の中にしか存在しなかった曲が生きた音色を奏でるとき~「蜜蜂と遠雷」感想(DVDで視聴)

 若手ピアニストの登竜門と言われる国際コンクールの第二次予選。課題曲のひとつは、コンクールのための新曲「春と修羅」。宮沢賢治の詩に作曲家がつけた曲である。カデンツァがあり、コンテスタントはそれぞれ自由に演奏を披露する。
 あどけない顔をしており、実際にいちばん年少のコンテスタントである風間塵(鈴鹿央士)は「暴力的なカデンツァ」を弾く。原作を読んだとき、「おぞましいトレモロ」とはどんな音なんだろうと想像を広げた。映画化されてうれしかったのは、「春と修羅」、なによりも「おぞましいトレモロ」が実際に聴けることだ。
 原作では、四人のコンテスタントがコンクールを闘っていくさまが克明に描かれていた。映画ではもちろんすべての再現は不可能だが、第二次予選の「春と修羅」は重点がおかれた場面。予選の曲ではあるが、このコンクールのために作曲家に委嘱した新曲だから、扱いも特別だ。
 じっさい、映画のためにこの曲を実際に作曲した藤倉大は、「この曲は映画音楽ではなく、映画の重要キャラクターの一人」なのだと語っている。そして、脚本ができる前に「僕の『春と修羅』を書かせてほしい」と頼み、監督やプロデューサーに受け入れられている。ふつうの映画音楽ではあり得ないと、藤倉自身も語っている。
 さて、塵の「おぞましいトレモロ」だ。どんなカデンツァなんだろう。これまで本の中にしか存在しなかった表現の「音」とは、低音が地響きのように鳴るのだろうか。塵のキャラクターは原作でも映画でも、最初から最後まで天衣無縫な不思議くんとして描かれている。この顔で、だれよりも前衛的な演奏をするのが恐ろしい。そして予想を遥かに超え、悪霊たちが押し寄せてくるような「おぞまし」さそのもののオクターブトレモロを演奏する姿は、見ていて身震いがする。
 もちろん、手は吹き替えだ。二一歳で世界三大コンクールのひとつ、チャイコフスキー国際コンクール二位に入賞した藤田真央が弾いている。藤田のもつ雰囲気は、監督が「塵そのもの」と言ったほど本作に合っている。演奏についても、監督から「キャストとピアノ演奏者が表裏一体となって二人で一人のキャラクターを演じて」と指示されたとおり、塵の「おぞましいトレモロ」は藤田と鈴鹿、二人で作り上げているものなのだ。
 他の三人も、それぞれ自分のカデンツァを弾く。こうしたコンクールにおいては、コンテスタントは膨大な課題曲のリストから自分に合った曲を選ぶため、全員が異なる曲を演奏することになる。
 だが一曲だけ、全員が同じ曲を演奏する。それが第二次予選の新曲「春と修羅」だ。カデンツァに入る前は、参考にできる音源もないまっさらな曲において、全員同じ譜面から、演奏家としてどれだけの技量をもち、どんな解釈をするかを問われる。
 それに加えて個人が自由に奏でるカデンツァだ。テーマからどんな想像を膨らませられるのか。ピアニストのコンクールでありながら作曲の腕も問われるという、現実にはありそうもない設定だ。映画だからこそ、現実の作曲家が四人分のカデンツァも作曲するという手が使えた。
 塵の「おぞましいトレモロ」やマサル(森崎ウィン)の超絶技巧、亜夜(松岡茉優)の「全てを包み込むような」温かい演奏が、実際に自分の耳で聴ける。なによりも、第二次予選を通過できなかったけれども作曲家特別賞をとった明石(松坂桃李)の「左手で水晶を拾いながら世界や宇宙に思いを馳せる」カデンツァ。賢治の詩「あめゆじゅとてちてけんじゃ」から創作したというフレーズがこれなのか。賢治の世界がどこまでも、静かに広がっていくカデンツァは『銀河鉄道の夜』を思い起こさせる。
 原作を見てから映画を観る。原作の「音」を実際に聴ける。なんと贅沢なことだろう。そして、また原作に戻って読む。もうひとつ、この映画はインスパイアード・アルバムも発売された。そのつもりではなかったのに、劇場で散財してCDを買ってしまったわたしは、いまこの原稿を書く前、自らをインスパイアするために、ふたたび塵の「おぞましいトレモロ」を聴いたのである。


今日の久松   amazonプライムには入っていないため、映画を見たいときにはDVDを借りてくる

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