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『完全無――超越タナトフォビア』第七十三章

赤ちゃんについて少し。

男性の精巣や女性の卵巣をかたちづくるための、あらゆる原因となるところのモノとコト、男性の精子や女性の卵子をかたちづくるための、あらゆる原因となるところのモノとコト。

それらの正常なる機能を保つための、あらゆる原因となるところのモノとコト。

そういった無数の遠因と近因(それは、男女が時を得て、有効な大人の体操を実行する、という基本的タイプの性行動ももちろん含まれる)によって、赤ちゃんがこの世(つまりは、現象界、現実社会)に生まれ出てくることが可能となるのである。

俗っぽく少しばかり不正確な発言が許されるならば、このように述べることもできるだろう。

赤ちゃんという「非遺体者」としての存在者は、赤ちゃんとしての生物学的資格を得る以前に、母親の身体だけではなくて、父親の身体にも、さらに、そこいらの肉や野菜や水や、マックのポテトや、ローソンのからあげクンや、ともかく両親となるべく定められていた存在者たちが、その存在の健康性保持のためにインプットすることで、両親の血となり肉となってきたところの、あらゆるアイテムたちにも、赤ちゃんは、「非誕生者として」バラバラに遍満していた、と言えるのだ。

「非誕生者」とはわたくしの造語であるので、ここで簡略に定義しておくならば、それは、生き物としての存在者が、胎児として母胎内において匿われている期間も含めつつ、さらに、それ以前の段階におけるあらゆる分裂的存在者のことである。

こういったシミュレーションの有意義性は、正統な因果関係だけを厳密に巻き戻していけば辿り着くことのできる、しかし骨の折れる科学的作業に掛かっているだろう。

そして、もちろんモノはコトとの因果関係をも形成している、ということに、わたくしたちはここで注意しなければならないだろう。

モノはコトに影響するし、コトはモノに影響するのだ。

そして、その都度の因果的アクションの選択肢は、モノとコトとの意味連関性の射程が及ぶ範囲に限られることとなる。

何を選択してきたのか、どのような行動を取ってきたのか、なぜそのような食事を摂取することとなったのか、さらに、摂取する段階における健康状態を構築してきた、あらゆる正統な因果関係を形成するところのモノとコトとの連携プレイだって考え得る射程範囲である。

赤ちゃんの全歴史的時空において、モノとコトとの干渉の強度に左右されながら、連携は連携を呼び、現象界における歴史的時空はそのような因果関係を事実的に保証し保障する。

もし進化論が完全に正しいと仮定するならば、胎児とは、人間以前のすべての存在者からの進化の歴史のすべてを、凝縮された夢物語として夢見ることのできる特異的なプログレッシヴな存在者である、と言っても過言ではないだろう。

そして、夢見ることに飽きた後、胎児から赤ちゃんへの脱皮として、つまり連続性という名の夢から、離散的なる現実という社会へと自らを引き渡すべき儀式として、母なる存在者の腹を容赦なく痛め付けるのであり、痛め付けることで、個人という存在の重さと誇らしさを母なる存在者へと訴え掛けるのであり、そのとき赤ちゃんとは、運命さえもその下僕と為す程に悪魔的な超人の成り損ないである、とも言えるだろうか。

もしくは、シンプルな母胎内という永遠万能のユートピアにおける、胎児の夢こそが本当の現実であり、複雑怪奇な環世界としての厳しい現実社会へと転がり出て来ることで始まる時空こそが、本当の夢なのかもしれない、と考えることもできる。

また、一般的かつ平均的には、赤ちゃんの一生とは、成長し、老化し、死に向かう、というプロセスをリズミカルに踏んでゆく不可逆的なフローとされている。

現象界、現実社会において唯一のオリジナリティを確保した総合体であると誰もが認めていた、そのひとりの輝かしい人間という生き物は、エントロピーのバランス能力を次第に減失し、己のアイデンティティもろとも、身体的にも精神的にも解体し、まずは分子・原子レベルにおいて、現象界へと物理学的・化学的に散逸してゆくのだ。

だがしかし、アイデンティティは完全に解体するのだろうか?

オリジナリティは全く行き場を失うのだろうか?

それ相当の時間は掛かるかもしれないが、人間という生き物が、素粒子レベルにまでたとえ分解されたとしても、とにもかくにも、生まれる前と同じく、生き物という存在者はただ単に散り散りになる、というだけの話であり、詰まるところ、存在者としての形態が変化する(質的にも量的にも)だけであって、ひとりの人間であった存在者としての、あなた独自の存在というものは、絶対的に消失することができない、つまり、存在者のかたちの変質・変量の如何を問わず、元より存在に対して完全に一体化している、ということではないだろうか。

どのような存在者であっても、完璧な世界の牙城には言葉を失うだけだろう。

おっと、世界の完璧云々については、前-最終形真理を超えたところにある【理(り)】の射程内で思考されるべきであるから、ここいらでこの章を締めることとしよう。

赤ちゃんという、れっきとした存在者が泣いて生まれて来て、じきに泣き止むなんていう殊勝な態度は、もしかすると、そのような世界の抗い難き完璧性に、実は気付いているからかもしれないのである。


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