『完全無――超越タナトフォビア』第五十六章
突然ではあるが、振り子時計の振り子をあなたがじっと眺め入るシーンを思い浮かべてみてほしい。
なぜいまどき、そのような古典的な時計を餌に哲学的な戯れ言を開陳しようとしているのか、などといぶかしげに肩をすくめないでいただきたい。
今ここで、三百億年経ってもたった一秒の誤差しか生じないスーパークロックの話題を持ち出す必要はない。
二台の時計が、2掛ける10のマイナス18乗程度の誤差の範囲内、というその驚異的な精度で一致する、などという精確性コンテストともあまり関係がない。
そこに「流れ」はあるのか? ということを時計に問い質したいだけなのだ。
振り子は一定の周期で揺れているように見える。
振り子は等間隔で時を刻んでいるように見える。
物理学的に再現性のある振り子を計算によって設定することはできる。
振り子が左に揺れ上がったときの頂点を、過去だと仮定すれば、振り子が右に揺れ上がったときの頂点を、未来だと仮定できるように思える。
振り子は過去から未来へと向かうように見える。
振り子が描く弧の中点を現在だと仮定できるように思える。
現在を中心点として、過去と未来とが同じ高さにあるように見える。
だがしかし、「世界の世界性」には「流れ」をかたちづくるポテンシャルエネルギー、すなわち位置だけで定量化されるエネルギーは存在しない。
「世界の世界そのもの性」のことをわたくしは世界の性質として、つまり無としての機能を無的に認めはするが、そもそもの始めから世界の世界性においては、基準点と成るなにものも存在し得ない、という枷があることには注意しておくべきだろう。
基準点は根源とは成り得ないからである。
基準というものは、ひとたび設定すれば、無限という規定の拡散が始まる。
しかしながら、世界の性質として設定してはいけないのが、点としての基準、定点であり、始点なのである。
始まりを定めるから、終わりを定めたい平凡な欲求に人間たちは易々と駆られるものだ。
視界における「左」や「右」などという人間的スケールの分節化は、確かに有用性と効率性に一見満ちているかもしれない。
しかし、そのような不毛な概念ゲームに恥をかかされないようにするべきなのだ、わたくしたちは。
「左」、「右」、「中央」、そのような位置的分節は世界の性質ではない、ということであり、完全無-完全有から――あらかじめすでにこれからも――排除されていなければならない。
「中央」、「中点」、「始点」、「原点」、「ゼロ地点」などという概念に依存すればするほど、「世界の世界そのもの性」を感じるための【理(り)】から遠ざかる。
数字のゼロという存在者は、位取り記数法において不可欠であること、そして、要素をひとつも所有することのない集合として定義され得ること、母なる淵源として分母に布置することで巻き起こる世界の不定性、などを武器として、人間たちが世界を無邪気に分節化し、世界を煩瑣に概念化し、世界を無限に複雑化し、世界を露悪的に曖昧化することに協力し続けてきた共犯者(ただし、愛すべきキャラクターではあるが)であるのだ。
数字のゼロという存在者が生まれる前から、「数」とはそもそも原罪であった。
人間の人間による人間のための有用性とそれへの貢献、効率的に世界を記述するためだけに駆り出されたはずの臨時の悪党の名が「数」であった。
彼らは一過性の糞虫ではあり得なかった。
彼らは彼らを産出した存在者たちよりも有能で普遍的で永続的な悪魔的罪悪と成ってしまったのだ。
そのわらうべき悲劇の中で、彼らは世界を分断し、世界に切れ目を入れ続ける諸悪の根源として、今もなおあらゆる「学」に対して強い影響力を行使しているのだ。
「数」は世界を壊す。
「数」は世界への挑戦だ。
「数」はセンチメンタルな革命論者だ。
「数」は愛に飢えている。
いや、愛という概念も普遍的に悪である。
愛が悪でなければ壊すことなど欲しない。
壊すことで何かが生まれることを目論んでいるのは、人間たち同様、悪の性質そのものだからだ。
わたくしはそのような愛の破壊性を、歓喜を噛み締めながらわらうしかないのだが。
チビ
「どうでもいけど、振り子時計の裏側にまわっちゃえば、振り子ちゃんが左から右に動いてた動きとかって、右から左に動いてることになっちゃうんじゃない? だからさー、どっちが始まりとか終わりとか、あんまり意味ないってことだねー。
流れる的な動き? そういうのよくわかんないけど、始まりとか終わりがないんだったら意味なくんるよねー。
動いてないのと同じことっていうか、動いてるようで動いてない的な」
しろ
「しろのしっぽは、みぎというよりまんなかで、ひだりというよりまんなかで、まんなかよりもまんなかでぇ、ぐふふぅ」
チビが気付いているかどうかはともかくとして、そう、振り子の動きを瞬間瞬間で止めてみせれば、そして止めた部分を全くの隙間無く並べてみせれば、無限の点の連鎖のように見えるかもしれない。
無限の現在が息付いているように見えるかもしれない。
だがそこには「流れ」なるものは、あり得ない。
「世界の世界性」は切ることができない。
「世界の世界性」を「時」によって刻むことはできない。
何かによって何かを切るためには「幅」という概念を援用しなければならない。
世界を切ることができるためには、「時」に幅がなければならない。
しかし、世界には「幅」はない。
「幅」のないものを「幅」のあるもので切ることはできない。
そして、無はなにものをも切ることができない。
よって、世界は無時間によっても切られることはない。
何かが分節されるためには「幅」という概念がなくてはならない。
世界は分節されない。
なぜならば、「世界の世界性」とは無分節だからである。
「時」という概念を、前-最終形真理によって解釈するとするならば、世界という有(完全ではなく一般的な有)において、あらかじめ無(完全ではなく一般的な無)として切られ、世界に隙間無く並べられているそれぞれの欠片を、人間たちが感じていると言える。
そして、無の重ね合わせを、「時」の流れとして、有となぜか境界面を分有することのできている無の連続として、感じること、それが人間には可能である、とも言えるだろうか。
だがしかし、その連続写真の一枚一枚のような「時」の切れ切れのひとつひとつは、無と有とが魔法のような悪戯によって無理やり「幅」を持たされているのだ。
前-最終形真理の段階から「世界の世界性」に触れようとすることは、なんと儚き痛みであろう。
だが、その儚さの誤謬をまずは見切るためにも、じっくりと腰を据えて前-最終形真理の限界を露呈しなければならない使命が、わたくしにはあるのだ。
「流れ」の話をしよう。
前-最終形真理の境位から敢えて観察すると、わたくしには滝がとまってみえる、わたくしには川はとまってみえる、わたくしにはあらゆる水流がとまってみえるのだ。
わたくしはタナトフォビアであった。
わたくしは前-最終形真理から抜け出せずにいた。
タナトフォビアのわたくしは滝をみた。
タナトフォビアを超越したわたくしが今、滝をみるならば、滝の存在は完全無-完全有としての滝であるだろう。
わたくしが滝をみるとき、滝そのものによって、そのまなざしの手は双身(ふたみ)に引き裂かれるだろう。
わたくしが滝、と口に出すとき、そのささやきの手は双身に引き咲かれるだろう。
滝はそのとき有限と無限とを超えるために、自己を反照する鏡としての自己を自らの手で破砕するだろう。
そうして滝は、有と無との境界線という幻想をにわかに喝破するだろう。
そしてわたくしは新しくも古くもない滝をみているだろう。
わたくしはたしかにかんじるようにみているのだが、滝はもはや、滝ではないという自己でもなく、滝であるという自己でもなく、完全無であり完全有であるところの滝になるだろう。
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