『完全無――超越タナトフォビア』第五十七章
ある粒子、そして、ある粒子と区別されるところの粒子、粒子同士の位置関係、粒子同士の行動パターン、粒子同士の意思の疎通、粒子同士のエントロピーのじゃれあい、粒子同士のエンタルピー(示量性を持つ熱力学的関数)の呼吸音、粒子同士の生滅ゲーム、粒子の万有引力的回路網が、あるかたちをかたちづくろうと、そうでなかろうと、かたちと呼ばれ得るなにものかは、意識を所有する存在者としての人間たちとは無関係に――あらかじめすでにこれからも――存在してしまっている、とも言える。
人間たちが意識と呼ぶものは、決して人間の意識が経由できない完全無に対する幻の裂傷である。
意識とは、どこまでも仮象としての、すなわち、ニセモノの無に対する「引き裂かれ」であり、かなしいかな、意識を持つ存在者とは、そのような仮象の絶対的規定に対して、透明な斧を振るうことしかできないのである。
仮象としての無によって絶対的に規定される意識が、ニセモノの無を反転させるために依り代とする道具として、対義語関係的真理、否定語関係的真理というものを生み出すことがある。
対義語関係的真理とは、たやすく偽理(ぎり)へと裏返る可能性に充ちている、確率論的に不安定な概念である。
わたくしはそのような真理のことを前-最終形真理と呼称するべきだったのであり、いくつかの章ではそのように明示したし、その判断は正しかったのだという確信が今もある。
前-最終的真理の次のフェイズである最終的な【理(り)】、しかしそれすらも仮名(けみょう)でしかないのだが、その【理(り)】はあらゆる対義語関係、あらゆる否定語関係を超えた最終段階として、最も絶望的でありながら、最も希望的であるがゆえに、生の恐怖も死の恐怖も同時的に寄せ付けることがない、という点で、タナトフォビアに魂全体で悶々とする人間たちにとってのメサイアとなることだけはここで予言しておこう。
死にたくない怯えも、生きたくない怯えも、どちらにしても考えるだけ無駄、という地平にまでそれは連れていくだろう。
「世界の世界性」という完全性は、なんらの経路も通らずに、なんらの発火にも、なんらのエネルギー同士の結合力にも頼ることもなく、無の重ね合わせとしての自身の輻射をすっかり終えて満足している。
外部からの刺激によって生起する、感覚や意識や記憶などの人間的スケールにおける精神的構造体なるものは、「世界の世界性」のその完璧さにおいては、決して正当な名前を与えられることはできない。
あらゆる普遍性、あらゆる特殊性、あらゆる全体性、あらゆる個物性は、変数Xとしての名前、つまり、真の名前を無限に決定できない、その名前をしらじらとその胸に「ほんものだよ、これは」と正当化して抱くことしかできない。
無限と有限とを超えなければ、世界のあだ名として、完全無そして完全有などという仮名すら成立しないことは明明白白ではないか。
仮名とは、単なることばの羅列、思い付きのパズルゲーム、ルール無き定義に過ぎない。
本来的に、「世界の世界性」に対しては、名付けることも呼び掛けることもできないのであるが、仮名でなら呼ぶことはできますよ、という余地が人間にたちには残されていた、ということである。
しかし、仮名云々のレベルでレーゾンデートル的地団駄を踏んでいる場合ではない。
完全無-完全有としての「世界の世界性」は、そもそもことばではないということを、いずれ知るべきである。
その知るべきことを詰めて詰めて詰め切るための武器が【理(り)】であって、その【理(り)】すら仮名であることに体感として感じ切れたとき、そのとき、【理(り)】でもって【理(り)】を亡き者とすることができるのだろう。
しかし、その前に【理(り)】そのものの定義をどこまでも解剖学的に分解しつつ、どこまでも論理的に、他のキータームと逐一照らし合わせてゆくことで、オッカムの剃刀ならぬ、完全無-完全有の剣によって無駄なノイズのすべては薙ぎ払われることとなるだろう。
そして、【理(り)】そのものだけが【理(り)】そのものを滅尽し得る特殊な聖具となるのであろう。