『完全無――超越タナトフォビア』第六十六章
聴いてくれるかな、チビたち。
チビたちが犬であろうと、ぬいぐるみであろうと、人間であろうと、チビたちという存在者の存在そのものが織り成す世界線・世界面・世界体積は、完全に無であるがゆえに、完全に有であり、その価値量は、人間たちの産み落とした哲学、そして科学や科学哲学の産声よりも豊穣に、いや完璧な充足感によって超越しているのだろう、とわたくしは思う。
その思いに対する反論は、チビたち、ここでは受け付けないよ。
ともかく、そのような超越感触を、チビたちと共時的かつ通時的に過ごすたびに、世界がわたくしに対して完全無-完全有的にサプライしてくるのである。
世界が、共時的-通時的時間を完全無-完全有に変換して「超越感触情報」を伝送する、ということであり、そこには物理学的プロセスや物理学的応答とは異なる仕掛けが施されているのだろう。
それはともかくとして、そう、科学。
科学とはなんでもかんでも否定できる反発力を持つわけではない、ということ。
科学は非科学を否定することはできても、非科学を否定する術というものは、科学的手続きによってのみ可能である。
わたくしはここで非科学を賛美するつもりは毛頭ない。
だがしかし、科学だけを賛美するつもりも毛頭ない。
科学の全能力によって可能な正しさの証明は、「世界の世界性」に対する分析・解析という(切れ目無き)分節化のみであり、分節化されたものは幻想である、という限りにおいてである。
幻想であるから、世界そのものに切れ目を入れることは元より不可能である、ということ。
「世界の世界性」に対しては、どこまでも誤りを駆逐することはできない。
要するに、科学が建前上否定できるのは、科学というカテゴリーにおける「非科学的な部分」に過ぎない。
科学的なのか非科学的なのか分からぬ圏域に科学は手を出せまい。
科学とは哲学から生まれ出てきたエリートではあるのだが、どこまでも哲学を超え出ることはできない。
哲学が分子神経科学、システム神経科学、認知神経科学、神経工学などの細分化された自然科学の「学」によって取って代わられる、ということはない。
哲学は必ず、あらゆる「学」と連携してゆく。
科学が、そのエリートさゆえに見落としてしまう領域を、直観的に定める能力が、哲学にはあるだろう。
哲学と科学との一蓮托生具合はそのような感じであるはずだ。
では、哲学や科学とチビたちとの関係具合とは?
哲学や科学は共時的-通時的時間の中で、理論的構造の一部が突発的に否定されたり、一部覆されたり、一部受け継がれたり、一部進展させながら、「歴史的流れ」そのものとなって概念成長に精を出すのだが、チビたちは違う。
哲学や科学における概念成長の枠では括れないのである、彼らは。
そのような囲い込みから、あらかじめはみ出してしまう存在者なのだ。
「学」によっては掴み切れない。
こぼれてゆく。
とびでてゆく。
はしゃぎまわって。
電子の軌道よりも、遷移よりも、楽しげに。
チビたちはきっと「世界の世界性」を識らずにしっているに違いないのだ。