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『完全無――超越タナトフォビア』第八十九章

無がいくら無限の連珠のように連なろうとも、それは空間とは成り得ず、時間とは成り得ないのである。

すべての事象を無限にミクロかつ無限にマクロの観点から観じてみる、という体感だけではニセモノの無にしか到達できぬ。

大も小もありはせぬ。

幅のある無限も有限もありはせぬ。

それが「原約」としての世界であり、破ることで存在理由を担保する人間たちによる原罪、その根拠とも言える。

「原約」としての世界への飛躍においては、精神そのものを捨て去る気概で、己の魂の意義とおさらばしてみることがまず肝要だ。

世界は、目・耳・舌・鼻・皮膚による経験知だけでは、体得することができないなにものか、であるのだろう。

すべての粒子もすべての宇宙も、ニセモノの無のあらゆるパターンの焼き直しに過ぎない。

そのようなニセモノの世界に属している生き物が、この矛盾をいかにして突破するか、突破でき得るか、という究極の思考実験を試みることが、完全無-完全有という体験への音無き序曲の始動なのである。

世界に宇宙がいくつあろうとも、たとえ無量大数の無量大数乗の宇宙があろうとなかろうと、数字という記号の幅のある無限の桁を文字面として数える破目に陥るだけだ。

つまり、数を数えることで、世界の幅を無意味に拡げているだけだ。

世界は数えられない。

世界は数ではない。

宇宙には、終焉も開闢もない。

エネルギーのすべてが無になろうとも、あらゆる質量が無になろうとも、どのような無のシナリオを描こうとも、はじまりのないものにはおわりはない、という定義から逆算することができてしまう、という点でそのような無はニセモノである。

既存のあらゆる思想・哲学で垣間見られるように、無境界の全体性としての永遠性のことを、「世界の世界性」だと言うことは早計に過ぎる。

科学という人間の学問的体系は、等号を探し続ける旅に過ぎない。

なにゆえ人間たちにそのような欲求があるのかというと、本能的な知への欲望(それは精神の枯渇に対する予防策でもあるのだが)、そして、効率のよい人間生活の遂行にとって有用だと気付いてしまったからである。

生活パターンの迅速なる把握を人間たちが求める際に、科学的思考とその所産は社会において有意義であり、苦悩からの快癒としても生活思想的に利便性が高いからに過ぎない。

「科学」教の信者にしろ、「宗教」教の信者も、世界に対して疑問など持たぬ無垢な状態に還るべきではないだろうか、という事態が窮迫しているのではないだろうか、この二十一世紀は。

もしも、この二十一世紀において進化論を信用しようとしまいと、ともかく人間たちよ、魚類から、いや鳥類からでもいい、そこからやり直そうではないか。

羽を生やすべきなのかもしれない、人間たちも、犬も、そしてわたくし狐も。

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