『完全無――超越タナトフォビア』第七十八章
この章では、ヒト科という存在者に(諸説あれど一般的に普及している説によると)特有の能力とされている言語という記号体系、そのシステムと真理の先に鎮座するという【理(り)】との関連性について軽く触れておきたい。
いや、言語と【理(り)】に対して礼節を尽くすために、ウィッシュの口ぶりを真似て、慣れない丁寧語で語る章としてみよう。
もっとも、言語そのもの性に対する言語学的な分析も、【理(り)】に到達する「道」からは遠いということは確実ではございますが。
精確に述べるならば、そのような道など元よりないのですが、便宜上「道」という概念をメタファーとして使用させていただきました。
ともかく、言語学的・構造主義的世界観における共時性(共時態)、同時性(同時態)などという区分すら、あらかじめ撥ね返してしまう【理(り)】という「原約」においては、いかに工夫を凝らしたメタファーであろうとも、罪悪感の強い反乱(としての悪辣)であると申さざるを得ません。
【理(り)】へのアナーキズム的な愛の拡散(すなわち世界を言語によって埋め尽くすこと)という意味合いに限るのであれば、それは美しい分析、解釈、見地の共有ではあるとは存じますが、「世界の世界性」においては、無駄・無駄・無駄・の三拍子なのであります。
【理(り)】という究極は対義語や否定語を嫌います。
嫌います、と言うより何より【理(り)】そのものからすれば、そのような感情論は端から存在いたしません。
そして、これから申し述べるような定義は、巷間においてしばしば取り沙汰される、世界に対する誤認であります。
① 世界はとてつもなく尊大なまでに大きいのです。
② 世界は疾走的に無限です。
③ 世界はとてつもなく謙虚なまでに小さいのです。
④ 世界は徐行的に有限です。
いずれも、過誤であります。
それら四つの文章における「は」の部分だけであるならば、かろうじて「世界の世界性」への接近として認めてもよい、とわたくしが主張することくらいは許されてしかるべきではございますが……。
そのようなやり口ならば、【理(り)】という究極に近付くための方便と成り得る、とここで宣言したとしても、咎として詰られることはないでしょう。
「ある」という二文字を心眼で触れる、という思考実験はかなり有効な手段ではございますが、「は」に対して目を向けるという方策も悪くはないシミュレーションだと存じ上げます。
「は」以外のあらゆる文字を放逐するということです。
そのようにして、ほぼすべての品詞を認識論的にも体感的にも締め出すことから始めなければ、「世界の世界性」としての【理(り)】には到達できないのではないでしょうか。
――AはBである――における「は」という部分だけに注目することで、対義語無き・否定語無き【理(り)】に近づくための可能性を得ることくらいは、できるはずです。
そうは申しましても、このわたくしの言説すらも、文字であり、ことばに過ぎませんから、対義語無き・否定語無き【理(り)】に漸近しているだけであって、対義語無き・否定語無き【理(り)】そのものから厳密に鑑みれば、非力この上ない小手先の技術に過ぎませんが、読者の方々に分かりやすくお伝え申し上げるためには、便宜的に文字やことばという記号的アイテムを使わざるを得ない、という哲学的な事情もある、ということなのです。
ご容赦くださいませ。
と、少々丁寧語で語らせて頂きましたが、チビたちも何やら不可解な顔面になっておりますので、次章からは、くだけた調子、いやわたくし自身の本源を体現するための言説モードに戻したいと存じます。
御傾聴まことにありがとうござました。