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『完全無――超越タナトフォビア』第七十九章


幅無き世界、というオリジナル無き不可思議について、前-最終形真理的ヴューポイントからの査読を実行すればするだけ、つまりは人間的スケールの知の枠内によって科学的に分析すればするだけ、初期衝動的な渦が混沌と秩序を巻き起こし続けるというニセモノの世界が幅無き世界を隠蔽し、つまり幅を捏造し、その虚偽の幅が分節性を保持することで、人間たちがいくらでも自由に謎かけできる余白を見出すことのできる論理空間が産み出し、その余白にミステリーというお邪魔キャラが続々とそのナンバーを自律的に量産してゆく有り様を、人間たちの側は黙って見届けるしか術がない、という状況に巻き込まれるはずだ(いや、現にこの二十一世紀においても、その精強なプログラムは目下実行中だ)。

そのようなミステリーが増殖する定め、ということも含めて、常識的なるニセモノの世界においては、可能性と呼ばれる触手(それは、速やかに、自体的に、非被覆的に、その樹形的本能を拡散できる獰猛さの発現であって、その振る舞いは、神秘的な聖廟の貴人たちのように優雅、というわけではなく、ただもうエゴイスティックに、そして可及的速やかに、量子力学的な確率密度を遵守しつつ増長する)が、不可能性という、ただもう脆弱としか言いようのない非線型的背景に散種されている亀裂(そのような裂け目のことを、秘匿された福音のような希望的産物のシリーズと捉えることもできるが)を、人間の確率論的計算に先行することなく、むしろ人間の知に迎合するが如く、律儀に狙いを定める癖があるために(それこそ、人間の知と結託した神とやらの不器用な手捌きが可能性触手の疾風怒濤の足枷となっているのかもしれないが)、その可能性触手自体の呼吸には荒さもなく、いや呼吸というシステムすら忘れているほどに、絶えず不可能性の背後で無音的に蠢き轟く、ということが実現しているわけなのだが、一方、物理的な量の相関関係からすでにして解き放たれている、つまり宇宙の背景となり得ない、ゼロの次元を超越した完全無-完全有的世界そのもの、つまりホンモノの世界、と言いたいところだが、究極的には世界にはニセモノもホンモノもあり得ないのだから、ただ世界と表現すべきではあるが、ともかく完全無-完全有的世界そのものの側は、ただ「ある」のみの存在として、呼吸すること無き基質、いや何らの代謝システムすらその性質として持たぬ超点粒子として、いや点であることすら無化されてしまっているような「なにものか」として、存在・非存在をも完全拒否しているが故に、可能性と不可能性とが織り成すカオスシステムとやらに初期条件を与えることも、統計力学的な解析を施すことも、人間たちの側の知力の空費に過ぎない、という事態が継続しているのだ。

連続(アナログ)無し、離散(デジタル)無し、相関係数無し、信頼区間、いや互換区間無し、統計量無し、そういったさまざまな無化システムの成就湯としての完全体こそが、オリジナル無き完全無-完全有としての世界における、「原約」的な「なにものか」である。

しかし、この作品におけるこの時点において「無化システム」ということばに理論負荷性を負わさざるを得ないということに、わたくしは実のところ「もやもや」を感じざるを得ない、ということだけはあらかじめ告げておこう。

「無化システム」はDNA二重螺旋構造のように相補いつつ可能/不可能の情報が、連続的に、亀裂無き「世界の世界性」に対して裂傷を与え続けることもできない、ということをもこの段階で示すことができるはずだが、わたくしには100%の自信があるというわけではない。

おそらくは、連続性も離散性もオリジナル無き「世界の世界性」としては約束されていなかったのだろう。

どちらにしても、世界は――あらかじめすでにこれからも――完成している(より精確には、――あらかじめすでに――完成してしまっている、と言うべきであり、「これからも」という未来を指向する文言は相応しくないのかもしれないが)、ということだけは確かだ。

NO WIDTH WORLD!

点であることを無化するような「なにものか」とは、何かと何かとは等価であるだとか、何かは、何かと何かを足したところのものである、などと嘯ぶくことでは決して定めることのできない「原約」である。

「原約」は世界の個物性や普遍性に還元されることはないのだが、人間たちの側が身勝手に、事象の等価性や不等価性をあらゆる事象・現象に対して理論的負荷として当て嵌(は)めることで、個物や普遍という人間的スケールの知の枠内における概念をただただ正当化しようとしているだけなのであって、そのようなことにいくら腐心したとしても、世界にはまったくもって同じ事象の連なりも、異なる事象の連なりというものも――あらかじめすでにこれからも――存在し得ない、という【理(り)】、それが袋小路(アポリア)としてどこまでも引き裂かれた口を巨大にあけて、人間たちの前に立ちはだかるだけであろう。

そして、世界そのものの側は反論する気配もなく、ただ何かを待つ、というような表情もないのに、頽落した人間たちは慌てふためき、ただ「ある」ということに手も足も出なくなる不条理の苦悩という劇を、ニセモノの世界内においてのみ演じることとなるのだろう。

何かと何かとを架け渡す橋などという概念はすべて意味を成さない。

「ある」という言葉に対して「ない」という言葉を想起してしまう種の人間たちを憐れむ権利など、わたくしにはないのだが、あらゆる事物を対義関係に引き裂いてしまうことの愚かしさに対しては、ただもうわたくしとしては黙っているわけにはいかない、ということだろうか。

人間たちは、手に入れた地歩を守ることに忙しいはずなのだが、知への欲望、知への愛という病が地歩を照らす天界からのひかりとなってしまうことで、頭を垂れる姿勢を忘却し、見果てぬ可能性とやらに羽ばたくために、大空を振り返り遠くを見がちになってしまう、ということ。

そういった哲学的態度が、世界にとって違約であろうが超法規的措置としての逸脱であろうが、人間たちは気付かないのだ、「原約」とは希望と絶望との二重螺旋ではないということに。

希望という可能性も、絶望という不可能性も「世界の世界性」へと到達するためのパスワードとはなり得ない、という【理(り)】への道標に記された暗号の、そのアルゴリズムからヒトという記号は常に弾かれている。

人間たちはそのような歴史を辿ってきた、というよりも自らの意志の報いとして歴史的人間社会を成立させてきたのだ。

だが、道端の蟻や蚯蚓を目で触れてみるがよい。

それは世界ではないのか。

ニセモノの世界であろうか。

目の感度を高めるとよい。

そして目を瞑(つぶ)るとよい。

【理(り)】はどこにあるのだろうか。

対義語による表現など、わたくしは実のところ使用したくはないのだが、真理でも偽理(ぎり)でもない、ただの【理(り)】が「あって」しまっているだけなのだ、ということをまずは解ってほしい。

その真情を汲み取ってほしい。

わたくしの訴えはそこにあり、それ以上でもそれ以下でもない。

【理(り)】は完璧性であり、その他の概念すべては、前-最終形的な対義語関係的真理・否定語関係真理(対義語・否定語のネットワークに溺れた理屈)である。

この章のこの段階において、前-最終形真理内に留まらざるを得ない神という大仰かつありふれた存在を援用したとしても、世界の世界性を象徴する代用とはなり得ない。

神、つまり、すべての必然性と、すべての偶然性という対義語関係を超え得るようで超え得ないがゆえに、不可能性の中から可能性を汲み上げるように創造する、ということを特質として持たねばならなくなった存在としての「なにものか」について少々思いを馳せてみよう。

不動の動者、第一原因、完全現実態、最高善としての神とは、たとえことばに表すことのできない「なにものか」であったとしても、何らかの働きとしての能動性を実現している限り(たとえば、観照する働き、自足する働き)、「世界の世界性」としての完全無-完全有とは別物である。

完全無-完全有とは、完全無と完全有とが対義結合している「なにものか」ではない。

完全無-完全有とは、完全無と完全有とが同義結合している「なにものか」ではない。

完全無-完全有とは、0-0結合、0-1結合、1-0結合、1-1結合ではない。

数字のような不完全性、非厳密性を完全無-完全有は持ち合わせていない。

完全無と完全有の間のハイフネーションの使用には大した意味はなく、便宜性のためだけに過ぎない。

完全無-完全有におけるハイフンを境に、可能性の刃や不可能性の刃によって
二身(ふたみ)に切り裂くこともできないし、ハイフンを体躯と捉え、完全無を右の羽、完全有を左の羽と成し、希望の槍で完全無の羽を突き刺し、絶望の槍で完全有の羽を突き刺し、世界の羽ばたきを停止させようという試みも無意味だ。

世界が羽ばたきの音を煌めかすことはない。

完全無-完全有からハイフンを(哲学的にであろうが、非哲学的にであろうが)消去したとしても同じことである。

無限性の海も有限性の涙も完全無完全有という文字の表層圏におけるゲシュタルトすら浸潤的に創発させることはできないのだ。

完全無-完全有が完全無完全有であろうと、完全有完全無であろうと、「世界の世界性」とは果たされることのない約束なのだから。

もちろん、完全無-完全有を完全(無+有)というフォーメーションに展開することは、できない相談だ。

完全な無と完全な有とが何らかの因子(つまり不完全さの象徴)になるということはあり得ないからである。

無と有とは体験的にはどこまでも同じものであるのだが、文字で表すと差異が生じてしまう。

文字や数字はそういった点ではやはり悪罪に近い、と言えよう。

そのような罪悪の頂点に君臨し続ける「なにものか」、それが神であると言えよう。

だがそれは、世界という「なにものか」ではない、ということならばこの章の段階において強弁したとしても、後の章においてクリティカルなダメージを負うことはないだろうとわたくしは睨んでいる。

神という「なにものか」を、能動性・受動性無き「原約」ということばと照らし合わせたとしても、そこには、絶対に越えられない壁が瞬時にそそり立つだけであって、「世界の世界性」への架け橋とはなり得ないだろう、ということを人間たちにここで予告しておこう。

約束という働き、つまり能動・受動関係というものは、「世界の世界性」においては――あらかじめすでにこれからも――破綻してしまっているのだから、神であろうと何であろうと、もう一度約束を取り交わすことも、もう一度約束を踏みにじることも、もはや叶わない。

約束の源である「原約」とは二度と邂逅することのできない契約であるがゆえに世界の原理的存在として、世界の特質となり得るのだ。

そして、もちろん神と「原約」とは同値ではないどころか、根源的にあまりにも乖離していることに注視すべきである。

たとえ、それらが比較不能な超越的存在であるという峻別を経験することが人間たちに可能であったとしてもだ。

可能性の小ささに負い目を背負うことはない。

尾を引く絶望に身を任せることもない。

福音に始まりも終わりもない。

福音は鳴らないからこそ福音なのだ。

ニセモノの世界においては時間と空間が季節を変えるように、希望と絶望は常に互いを追い回す。

ニセモノの世界とは時間と空間という幅によって構築された「原約」への反逆であり、あらかじめ仕組まれた無化システムへの復讐なのかもしれない。

一尊の仏が統べることも、一柱の神が統べることも、決定論の王が統べることも、非決定論の王が統べることも、何しろ(ホンモノの)世界というものは統べられる存在ではないのだ。

三千大千世界、異次元空間、平行宇宙、代替宇宙、量子宇宙、相互浸透次元、マイナス宇宙、などという世界は数体(すうたい)に依拠することを免れないが故に、科学的なニセモノの世界に過ぎないのである。


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