『反省させると犯罪者になります』
『反省させると犯罪者になります』を読んでいる。クリスマスなのに何してんねんという話なのだけど、外が寒い以外はふつうに読書日和。
悪いこと(犯罪やいじめ)を犯した人に、世間は「反省」を求める傾向にある。学校の教室でもあった光景じゃないだろうか。誰かルールを破った子がみんなの前で先生に怒られていて、とりあえず泣いて謝ると許してもらえる。そうすれば反省しているように見えるから。
この本によると──よらなくても、考えてみれば当然のことなのだけれど、人は自分が責められる立場になると真っ先に保身を考える。
たとえばいじめの主犯が「あなたはいじめをしていたでしょ」と詰められたらどうするか。詰められた側が最初に考えるのは「どうしたらシラを切り通せるか」であり「それができないなら、なんて言い訳すれば責めが軽くなるか」なのだ。
ここでいきなり「ああ、いじめた子に申し訳なかった、わたしが悪かった」と反省に入ることはまずない。たいていの生徒が「どうしたら親に連絡が行かずに済むか」とか「これからの社会的立場を守るためにどうするか」に頭を使う。
「内申点が下がるのも嫌だし、できるだけ軽い罰で済んでほしい。被害者の心情なんか二の次」……。人の心がないかのようだけど、実際なにかを咎められた人の頭には、最初に保身と後悔が浮かぶものだ。
だから先生から「反省文を書いてこい」と言われたら、内心はどうあれそれっぽいことを書く。「二度としません」「いじめた○○さんに悪かったと思っています」「本当にごめんなさい」。馬鹿正直に「自分が悪いとは思ってません、あいつはムカつく人間だったんで」なんて書くはずがない。
立場をこれ以上、悪化させないためには謝ったほうがいい。そう考える人間が大半だ。それは傍観者を満足させるための「反省したフリ」であって、本物の反省とはほどとおい。これと同じようなことが、刑務所や更生施設では起こっている。
本当なら、どうしていじめが起きたかを考えないといけない。いじめた側がどうしてそんなことをしたのか。家で辛い言葉をかけられていたのかもしれないし、自分が昔いじめられたときに誰も助けてくれなかったのかもしれない。自分もまた傷つく経験があって、いじめに走ったと考えるのが妥当だ。
人はいきなり悪人にはならない。なにか理由があって犯罪やいじめに走る。加害者に反省(してるフリ)を求めるだけで満足していると、一番大事な「それが起きた理由」を見落としてしまう。結果、根本的な問題が解決されずに再犯に至る。
闇雲に「反省しろ!ギャラリーを満足させる謝罪と涙を見せろ!」と言ったところで、解決にはならない。でもいまの社会はそういう方向に向かっていて、加害者と向き合ってもとの問題を解決するより、厳罰化して「反省させる」。そうして、反省パフォーマンスのうまい人が許される。
この本の出版年は2013年だけど、そのあと社会が変わった気配はない。いじめに対する対応もあまり変わってないだろう。「反省しろ」とはいつも「権力者が気に入るパフォーマンスをして見せろ」でしかなくて、本当の理由が置いていかれる。
本の中で言われる「受刑者」は主に男性で、男性ならではの抑圧も描かれる。「男らしくあれ」=「泣くな、弱音を吐くな、人に頼るな」の呪縛を受け続け、爆発するように犯罪に向かう人もいて。
犯罪を減らしたいなら、遠回りなようでも優しい社会をつくるほうがいい。誰でもどこかで、安心して弱音を吐ける社会。いまはNPO法人などが相談窓口を持っていて、もちろん男性の利用もあり、少しずつよくなっている気配はある。
自分にもなんらかの呪縛と抑圧はかかっているだろうし、それが高じて加害者にならないようにしたい。
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