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お盆≠仏教の話

 noteを見ていたら「仏教って出家を促すくせになんでお盆で先祖を敬うんでしょうか。おかしくない?」みたいなタイトルが現れて消えていった。あとからさかのぼっても見つけられなかったので題しか読めなかったけど、その話を書いてみようと思う。
 
 「お盆」はそもそも仏教行事なのか。これはかなりの部分「否」であることは、柳田国男が書いている。いちおう仏教用語の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の略だと言われているものの、これの根拠はとてもあやうい。

たとえば我が邦では旧暦七月十五日に、盂蘭盆会という法会を執り行わしめられた例が、公にもかなり古くからあった。しかしそれだからこの前後の幾日間を盆というようになったのだという仏者の説は、有名または平凡だというばかりで、ちっともまだ証明せられてはいないのである。

果たして梵語のウラブンナをボンと略しても通ずるような語法があるのか。もしくは漢土において音訳の盂蘭盆を、盆と書いても通用した例があるのか。はたまたそれはただ我が邦だけの偶合であって、たまたま外来音の聯想があったために、盆という漢字が僧俗の間に、特に人望と博したというだけではないのか。

柳田国男『先祖の話』KADOKAWA、令和4年、119-120頁。

 日本にはもともと先祖を祭祀の対象にする文化があった。そこに表面上、仏教が乗っかってきたに過ぎなくて、実体はまったくもって仏教的ではない。単に言葉が似ていたせいで、昔の人が「関連あるかもね、きっとあるよ」と言った、それくらいの信頼性。
 
 もちろん柳田の解釈も一案には過ぎない。ただ本当にお盆が純粋な仏教行事だとしたら、冒頭の記事のタイトル通り、奇妙が過ぎる。だからもとから日本からあった風習だと考えるほうが、自然というか納得がいく。
 
 日本に生まれ育つと「この国に特有の思想はなにか」と問われてもうまく答えられない。比較対象になる海外の国をそれほど知っているわけでもなし、わたしはこの空気の中で育ち、これが普通だと思っているから目に見えない。
 
 『先祖の話』では、そこらへんがうまくまとめられている部分があった。引用する。

ここに四つほどの特に日本的なもの、少なくとも我々の間において、やや著しく現れているらしいものを列記すると

第一には死してもこの国の中に、霊は留まって遠くへは行かぬと思ったこと、

第二には顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭だけでなしに、いずれか一方のみの心ざしによって、招き招かるることがさまで困難でないように思っていたこと、

第三には生人の今はの時の念願が、死後には必ず達成するものと思っていたことで、これによって子孫のためにいろいろの計画を立てたのみか、更に再び三たび生まれ代わって(ママ)、同じ事業を続けられるもののごとく、思った者の多かったというのが第四である。

同上、181頁。

 言われてみれば、亡くなった祖父母の霊がアメリカ大陸を漂っているとかは考えにくくて、漂っているとすればそれは日本国内だって気がする。たぶん地元のあたり、家の近く。兄も亡くなっているが、霊がどこかにいるとしても国外は想像できない。
 
 二番目の「あの世とこの世の行き来がたやすい」は、あまり自分は思ってない。でも母親が信じていそうな気がする。
 
 母方の土地を空気のように支配する思想は、生者と死者を分けない。人はいつでもその一線を越えられるし、そもそも生と死のあいだに大きな開きはないと、土地全体が思っていそうだ。自分が一度だけ日本兵姿の幽霊らしきものを見かけたのも、この地域だった。
 
 こういうのはすべて「日本的」なのか。海外で生まれ育ったことがないから、からだに浸透している感覚は客観視できない。なるほどこうしてみると自分の宗教観は、けっこう土地(国)に縛られているのかな……。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。