お盆≠仏教の話
noteを見ていたら「仏教って出家を促すくせになんでお盆で先祖を敬うんでしょうか。おかしくない?」みたいなタイトルが現れて消えていった。あとからさかのぼっても見つけられなかったので題しか読めなかったけど、その話を書いてみようと思う。
「お盆」はそもそも仏教行事なのか。これはかなりの部分「否」であることは、柳田国男が書いている。いちおう仏教用語の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の略だと言われているものの、これの根拠はとてもあやうい。
日本にはもともと先祖を祭祀の対象にする文化があった。そこに表面上、仏教が乗っかってきたに過ぎなくて、実体はまったくもって仏教的ではない。単に言葉が似ていたせいで、昔の人が「関連あるかもね、きっとあるよ」と言った、それくらいの信頼性。
もちろん柳田の解釈も一案には過ぎない。ただ本当にお盆が純粋な仏教行事だとしたら、冒頭の記事のタイトル通り、奇妙が過ぎる。だからもとから日本からあった風習だと考えるほうが、自然というか納得がいく。
日本に生まれ育つと「この国に特有の思想はなにか」と問われてもうまく答えられない。比較対象になる海外の国をそれほど知っているわけでもなし、わたしはこの空気の中で育ち、これが普通だと思っているから目に見えない。
『先祖の話』では、そこらへんがうまくまとめられている部分があった。引用する。
言われてみれば、亡くなった祖父母の霊がアメリカ大陸を漂っているとかは考えにくくて、漂っているとすればそれは日本国内だって気がする。たぶん地元のあたり、家の近く。兄も亡くなっているが、霊がどこかにいるとしても国外は想像できない。
二番目の「あの世とこの世の行き来がたやすい」は、あまり自分は思ってない。でも母親が信じていそうな気がする。
母方の土地を空気のように支配する思想は、生者と死者を分けない。人はいつでもその一線を越えられるし、そもそも生と死のあいだに大きな開きはないと、土地全体が思っていそうだ。自分が一度だけ日本兵姿の幽霊らしきものを見かけたのも、この地域だった。
こういうのはすべて「日本的」なのか。海外で生まれ育ったことがないから、からだに浸透している感覚は客観視できない。なるほどこうしてみると自分の宗教観は、けっこう土地(国)に縛られているのかな……。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。