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50代 何かを始めるのに「もう遅い」という概念はない

皆さん、おはようございます。


今日は、「何かを始めるのに「もう遅い」という概念はない」というテーマで綴ってみたいと思います。





恐怖が強いのに行動してメンタルボロボロになりながら気がついたら50代になっていた



昨日、これまで自分が書いた文章を読み返してみました。


思い返すと開設し始めの頃は、
自分の思いを人に伝えるなんて恐怖しかなかったわけです。

私みたいな人間が文章なんて書いて良いのだろうか?
私のようななんの取り柄もない人間が…

私なんて…
私なんかが…

今思えば、もう全く自分の思い込みだけの世界に生きていたようです。
それだけ心が孤独だったのかもしれません。


私のこれまでの人生は、
毎日何かの恐怖に取りつかれているような人生でした。

それは自分の持って生まれた性質と、
育った環境が原因という事もあったと思います。


そのようになってしまった根源の出来事と言えば、


一番古い記憶では2~3歳頃、
母親がいつも周囲の人に言い放っていた私の存在についての発言です。



「要らないのにできちゃった」



私には、年子の兄がいました。
母は2年続けて子供を産むつもりはなかったようなんですが、

当時、産婆さんに言われた、

「母乳をあげている間は子供ができない」という、


今となっては迷信のような一言で、
私ができてしまったことで、

産婆さんに物凄く憤りを感じた母は、

その出来事をまるで自分が先行者として知ったかのように、
周囲にマウントを取るように伝えていたことです。

何度も何度も母がその話を人に伝えているのを横で聞いてきた私は、


それを聞くたびに心が深く傷つき、

「要らないのにできちゃった」が、
私の心と頭を支配していきました。




幼少期、そんな母に捨てられないかという恐怖から、

私は母に必死にしがみつき、
母の顔色を見て、母の言う事は何でも聞き、

気づけば母の奴隷のようになっていきました。


しかし、母はそんな子供らしくない私を、
「可愛くないけど都合が良い」というように、
認識していったと感じます。


ところがそうすればするほど、

今度は周囲の大人に、
「おとなしくて良い子」だと言われ始めます。

そしてその動き方が正しい動き方だと思い込んでいきます。

その結果、
「大人とは、その顔色を見てこちらが先回りして動いてあげると喜ぶ」
という、大きな危険をはらんだ間違いを学習していきます。


本当はただ、自分が「要らない子」から「必要な子」だと、
いつか母に言ってもらいたかった、ただそれだけでした。



「要らないならどうして産んだんだよ」




ところが思春期に入ると今度は、
自分の心や意思がわからなくなり、混乱していきます。

毎日天井がグルグルと回っていて、
自分の体が宙に浮いているようにフワフワとしていて、


学校でも集中することが難しくなっていき、
勉強にも恐怖を抱き始めます。


そこに当時、80年代アイドル達のキラキラした輝きが、
自分の容姿に対するコンプレックスを掻き立て、

心を引き裂き、追い打ちをかけます。

「自分がもっと可愛かったら」

そして次第にそんな自分を産んだ母を強く恨むようになっていきました。



それが大人や社会に対する恐怖へとつながり、
自分の人格形成に大きな影を落としていきました。



怖いと思っていた社会や情報や人に救われた



そんな中で、人生で初めて自分で意思決定した出来事、
それが「出産」でした。

今となってはとんでもない事をしてしまったと思うのですが…


それから不定愁訴的な体調不良がずっと続いて、
思うように動けず苦しみます。

当然ながら家事育児に苦戦していきます。

当初、それは「自分がダメな人間だからだ」と、
自分を責め続けていました。


ある時、子供の寝顔を見ていると、
ふと、「この子たちに私の悲しみは関係ない」と思い始めます。


それもフワッと湧く感情で、
どこからやってきたのかはわかりません。



そして「母に言われて辛かったことはこの子たちには言わない」と、
硬く決意している自分
がいました。



そして、子供たちのために自分が元気で幸せを感じられる人間になっていきたいと強く思い始めるようになっていきます。


そんな中、段々と一般家庭へもインターネットが普及し始めます。
当時主流の、0円パソコンでネット契約をした私は、

人差し指でキーボードを一個一個叩きながら、
むさぼるように情報を収集し始めます。

そして自分の状態を少しづつ把握していきます。


「アダルトチルドレン」
「ADHD」
「自律神経失調症」
「統合失調症」
「うつ病」
「パニック障害」

など、自分と似たような状態や疾患が数々と見受けられます。


「自分は病気なのかもしれない」
やっとのことで病院に行ったのはその頃です。

「パニック障害、うつ病」という診断でした。

診断がついてカウンセリングを受けると、
人生で初めてガチガチになっていた体がほぐれていくのを感じました。

その時の担当の先生が、
私にとって人生で初めて自分の気持ちを話した人でした。


その時にはすでに子供たちにも心配をかけていました。

「お母さんは体が弱い」と、
子供たちは常に私の心配をしていました。

申し訳ない気持ちでいっぱいでした。


病院にかかるのが遅かったかもしれませんし、
順番が違ったかもしれません。


しかしそれは私にとってはそれがタイミングだったと今は思います。
そうでなければ気づけなかったのだと思います。


子供を産むという事は、
実は親の方が子供に成長させられているという事なのですね。


そして忘れてはならないのは、
インターネットの恩恵に命を救われたという事です。

このインターネット社会に感謝してもしきれません。


子供たちのために生きる


初めて心療内科に受診し、
お薬を処方されてから、

それまで飲んでいたお酒を一切やめ、
服薬完璧優等生になっていきました(笑)。


子供たちのために絶対治すぞ、という自分の意思、
凄まじかったと思います(笑)。

しかし寛解に至るまで約5年の年月を要しました。


その過程には、
貧困一家離散なども経験し、
当時を思い出すと、本当に胸が押しつぶされそうになってしまいます。

懺悔の気持ちもあります。


でも私は、健康こそが幸せの条件だと、
自分が健康になれば子供たちが笑ってくれる、
そう思って、それをあきらめることはありませんでした。


そして今では健康状態も良好で仕事もできています。

少しづつ、少しづつ、
一歩づつ、一歩づつ、

前に進んでいるような気がします。

どこか、いつも生きることをあきらめていない自分がいるのです。




母が倒れて亡くなってから約25年経ちました。

母が亡くなった時、
人前で嘘泣きのような涙を流している自分がいました。

涙がちゃんと出ていて驚きました。
自分で自分の感情がわかりませんでした

あの時、正直、母が亡くなってホッとした自分がいました。


もしずっと母が生きていたら、
母への憎しみという感情を抱いたまま、
自分の人生を生きることになっていただろうと、

胸をなでおろす自分がいました。


親が亡くなっているにも関わらず、
安堵している自分、
それがまた自分を責め立てます。

でもどこか諦めていないんですね。
そんな自分を変えてやろうと思う自分がいつもいるのです。

ならば様々なメソッドや情報収集でもっと自分の感情を知ろう、
そう思いました。


そして何よりも時間薬です。

母がいなくなって随分時間が経ったことで、

自然と母を恨む気持ちも、
大きくパンパンに張った風船の空気がなくなっていくように、
いつの間にかしぼんで消えていったのです。


40代。
手に職や資格が何もない私は、
正社員として介護業界に入り、

予想通り悪戦苦闘しますが、

何とか10年近くこの業界に携わることができたおかげで
様々な人と出会い、
学びを経て成長させていただきました。


同時に更年期を迎えるのですが、

30代のうつ病の経験で得た様々な情報や智恵を結集し、
また、再婚した夫の扶養家族として守ってもらう事で、

「休む」事が少しづつ出来てきました。


それまで、休むことは悪いことだと思っていました。


しかし休む中で自分を大事にする事を覚えていきました。


すると、段々と休むことへの罪悪感も取れて、
むしろその重要性を知ることとなりました。



次のステージへ


50代に入ると、子供が成人した事で、
セカンドライフとして新たに何かを始めたいと考えます。

しかしこれまで、家族や高齢者など、
自分以外の人のために生きてきた私は、


自分と向き合う事がとても苦手で、

その「何か」がわかりませんでした。

更に成功体験をあまり知らない私は、
コンフォートゾーンを抜け出すことに対する恐怖が人一倍大きく、


「怖いから行動したくないけど、変わりたいから行動したい」
という矛盾が発生します。



それで一念発起して衝動的に何かやってみるのですが、

高いハードルを自分で作っては、
怖いまま行動しています。

正に、アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態です。
特にブレーキをギュンギュンに踏んでいる状態です。

アクセルは基本ちょこっとで、気分でたまに暴走します。

そんな状態ですから疲労ばかりが溜まり、
行動すればするほど周囲に心配をかけていたかもしれません。



そんな中、以前から気になっていたnoteにアカウントを作ってみました。

そうしたところ、
プロのクリエイターさんや、
文章の上手な方や多彩な方々が大勢いて、焦りを感じます。

しかしそんな事ばかり思っていても、
ただただ時間が過ぎるばかりです。


「時間は財産」なのです。


何もしないという事は、
時間をどぶに捨てていることと同じなのです。

もうやるしかありません。

背水の陣です。


そして私には何もありません。


でもまずは「アウトプット」する事を目的として、
自分の思っていることを少しづつ書き始めました。


しかし書き始めると、
自分の心や人生を画面の向こう側から俯瞰して見ることができ、
心が整理され始めていくのを感じます。

そして少しづつ書くことが楽しくなっていきました。

その時、人生で初めて自分の中に、
「楽しい」という感情が芽生え始めているのを感じ始めました。

これまでの人生においては、
自分に合っていない方法で行動していたかもしれません。
だから辛かったのかもしれません。

ここで私は二つの事を手に入れました。

それは、
「無知の知」
「メンタルブロックが外れた」
の二つです。

まず1つ目は「自分の事を知らなさ過ぎた」という事です。

これが自分の行動をちぐはぐにした大きな原因だったと考えます。

そして2つめは、メンタルブロックが外れた、です。

克服の仕方としては、


「感じなくなるまでそれを継続し続けることで耐性をつける」
ただ、これだけでした。

しかし、これは後付けなんですけどね。

ある時ふと、「あれ?怖くない。楽しい。」と気づく瞬間があって、
初めてわかるものなんですね。


なかなか可視化しづらいですが、
気づきは自身を毎日観察することで得られることと思います。


そしてその時思うんですよね、
「どうしてもっと早くやらなかったのだろう」と。


後悔ってやつです。
しかし、この後悔は良い後悔です。

それは次のステージに上がっているという証拠です。


でも今が充実するとそんな後悔の気持ちも、
あっという間に勝手に消えて行ってくれるのが本当に面白い。


何だったの?今までの恐怖は?
何をそんなに力んで生きてきたんだろう?


そこにはこれまでの自分とは真逆の自分が存在しているのです。



恐怖とは自分の思い込みにすぎない



私の持論ですが、

恐怖と言うのは自分の思いこみであり、

自分以外の世の中全ての人は、
自分に対してそんな理解はありません。


ただ、自分が楽しいことを思えば、
周囲もその様に反応して、

恐怖から行動すれば、
また周囲もその様に反応するだけなんですね。



それは皆さんがスキを押してくださったことで気づけたことです。

皆さん、本当にありがとうございます。




諦めない


自分の文章は、まだまだボキャブラリーも少ないですが、


諦めないコツコツと少しづつアウトプットすることで、
まずは、ここまでたどり着くことができました。

そしてやっとですが、
自己を受容
し、自己を肯定することができるようになってきました。


そして今度は、
同じような思いや悩みを抱いている誰かのために、
私の経験や感じた事を言語化して社会へ放つ。

そんな事ができたらと思っています。


スタートはいつでも、今



生い立ちに悲しみを抱え、
その中で間違った認知をし、

自分だけの世界で思い込み、
周囲に迷惑をかけた。

でもだからこそ「絶対治してやるんだ」という強い心を持つことができた。


そして今、すっかり健康を取り戻した事で、

自己を受容できた事。
毎日幸福感を感じることができるようになった事。

この過程や自分の思いや情報を少しづつアウトプットすること。

これこそが私がこれからできることだと感じています。

それには今日までの年月を要したという事だったのかもしれません。

だからこそ、
何かを始めるのに遅いという事はないと断言します。

スタートはいつでも、今なのです。

そして今ここに、


心身の健康を取り戻した、
これからの人生が楽しみで仕方ない自分がいます



最後に、

「インプットとアウトプットで自分を知り、自分を創り、自分を育てる」

「何かを始めるのに遅いという概念はない」


今日はこんな文言で〆たいと思います。


皆さんの人生のヒントに少しでもなれたら、嬉しく思います。


ここまでお読み下さり本当にありがとうございました。
心より感謝いたします。


それでは皆さんの一日が素晴らしい一日でありますように。

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