機能不全家庭で育った中学時代
前回は、幼少期から中学1.2年生頃の事を書いた。
今回はその続きから書いて行こうと思う。
私が親父の元へ戻り、親父の”メモ”を見つけてから暫くは、落ち着いた日々を過ごしていた。と言っても1か月程度だったと思う。
私は元居た中学校へ《転校生》として戻る事になる。そこからまた憂鬱な中学校生活の始まり。
家にも学校にも居場所は無い。
転校前は、この小さな小さな学校や、住んでいる地域にはヤンキーは少なかった。私は当時、あの狭い狭い世界では”イキがる”不良少女だった。
なので、転校生として戻った、元居た中学校にも居場所は無くなった。
仲の良い子も居たが、幼少期から培われた、”空気を読む力”と言うのか…?暴力の中で育ち、自分の意見は持てない。叱られればカタツムリのように”硬い殻”に閉じこもる。閉じこもらなれければ、壊れてしまうから。あの空気から逃げる為の手段だった。
親父は気に入らない事や、私を叱った後は必ず、とてつもなく重い空気を放ち、私が話しかけでもしたら、フルシカトが何日も続く。それが当たり前だった為に、変な空気はすぐ察知できた。
それでも学校には行っていた。家には居られない。学校を休めば”ボコボコ”だっただろう。
以前の記事に《中学の教師も勿論敵だった》と書いた事がある。中三の時の担任《小嶋》と体育の教師だったか?定かではないが《加藤》こいつら二人は本当に許さない。
”加藤”には顔面を本気のグーで殴られ、私は吹っ飛んだ。なぜそんな事になったのかというと、その当時、不登校の男の子が一人いた。
何故かその子が《○○にいじめられて不登校になった》と言っていると”加藤”に言われた。
私が虐めてる?こいつは何を言ってんだ???全く接点もなく、話した記憶もない男子。そいつを私が虐めたから不登校????そりゃ、当時の私は反発した。意味わかんねーこと言ってんじゃねーよと。本気で見覚えがない。一ミリもない。だって話した事ないんだから。
放送室で”加藤”に詰められ、私は殴られた。記憶はそこで途切れているが、その件で親父はブチギレ、学校に乗り込み慰謝料を取った。金額は覚えていない。私に入るわけじゃないし。
私は顔を腫らしたまま学校へ通い、何故かヒーローになったような感覚だった。皆に心配され、声を掛けられ、好きな男子にもその件で声を掛けられ嬉しかったのを覚えている。たった2クラスしかない小さな世界の中で、一瞬だけ勘違いした時だった。
中三になり、新学期だったか?転校生が来た。彼女は《ゆかり》その後の私の人生を色々と変えていく。いわゆる”悪友”だ。
彼女との最初の会話は、私から『宜しくね』と言ったらしい。
ゆかりは転校初日から、当時流行っていた、髪染めスプレーの《黒》を吹き掛けられ登校していた。
うちの学校は厳しく、ドライヤーで髪の色が抜けてしまう子、色素が薄く紙が茶色い子など、親が届を出さなければならない。今思うとクソみたいな校則だ。そんな中、ゆかりは自発的に染めていたので、黒髪スプレーをされていた。
そんなゆかりと仲良くなるのは一瞬だった気がする。そこに”後藤”も加わり、当時はよく3人でつるんでいた。
ゆかりが転校して来たことで、私の学生生活は崖から転がり落ちるみたいな速度で、変わり始めた。
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