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失敗の切符を持って、可能性の改札を抜けると。

「失敗は成功のもと」なんてよく言ったものだが、「あの失敗があったから」という文字列を目にして思い浮かんだのは、失敗ではなく、とある成功体験だった。

失敗の中に成功を見る。
まるで生の中に死を見るデカダンスの対比のようだ。
限りのない影の中に、一筋の光の存在を見るような、不可思議な感覚。意識の下ではない、直感にして真実と言わざるを得ないそんな感覚の中で、過去のそれを現在の私は一体どう結論付けているのだろう。この文章を認めながら、ゆっくり、ゆっくりと思考の旅へと出かけていく。しばしお付き合いいただきたい。

そもそもとしてまず、失敗の意味から再確認したい。

しっ-ぱい【失敗】
物事をやりそこなうこと。方法や目的を誤って良い結果が得られないこと。しくじること。
引用:goo国語辞典(2021/06/05/19:26 時点)
(https://dictionary.goo.ne.jp/word/失敗/)

いい結果が得られないこと、正しくそれは言葉通り「結果論」に過ぎない。良くない結末を迎えた時、元の行為を人は失敗と呼ぶ。そしてそれは際限がない。運命という言葉に、何処か通ずるものがあるように感じないだろうか。何故かといえば運命こそ結果論だからだ。(この発言・思考において哲学的な意味は一切含まない)

例えば、「この人と結婚したのは運命だったのね」と笑う女性がいたとして、それは凡そ結婚に至った男性と歩んだ人生が結果的に幸福なものであったからだろう。

そして例えば、「Aが死んだのは運命の導きだったのかもしれない」と数奇な死を迎えたAに言葉を投げかけるBがいたとする。BはAの死を成る可くして成った、免れないものとして受け入れることで「Aの死」を昇華しようとしているに過ぎないのかもしれない。

一見して死は「良くないこと」のように感じてしまいがちだが、他者の死を「良くないこと」として勝手に捉えるべきではない。時に「死は救済」と呼ばれるように、死は他者が良し悪しを決定する権利を得ない。ただ、到底受け入れられない眼前の結果を、自分自身に言い聞かせる手段としても「運命」は度々使用されるだろう。

「運命」という言葉は時に甘美で、ロマンティックだ。キザで、純粋で、神聖だ。文学的な思考で考えた時、私は心から「運命」という言葉を美しく感じる。人間の意思の先にある禍福、巡り合わせ。その考え方は正しいと思う。しかしながら現実的に、ロジカルに考えた時、先ほど例えたように運命は結果論に過ぎないとも考える。運命は良し悪しの関わらない結果なのだ。だからこそ、敢えて物語世界や哲学思想の中に運命を夢見るのかもしれない。

さて、失敗の話に戻ろう。
「良くないこと」に限定される結果を失敗と名付ける時とは、どのような時だろうか。ここで冒頭触れた私の「成功体験」についての話をしていこうと思う。

失敗、良くない結果と来て浮かんだのは大学受験の思い出だった。私はずっと、大学受験を失敗したと思いながら生きてきたのだろう。何よりもそれが、最初に脳裏を掠めた。

結果から述べると、私は大学受験という失敗によって夢を二つ失った。一つは学芸員になる夢。もう一つは歴史を学ぶ夢だ。受験当日の極度の緊張はさることながら、そもそも願書を提出する段階から失敗している。希望していたのは日本史学科だったのにも関わらず、滑り止めの大学は倍率の低い日本文学科で提出していたのだ。第一志望ないしは第二志望には受かるはずだと、模試の結果を見て侮っていたせいである。不合格の三文字が涙で霞んだ眼の記憶は、今も忘れられない。

まさか、行くことになるなんて、こんなことなら…とその時は思った。あれだけ悔し涙を流したことは後にも先にもない。「良くないこと」だと自分の中で辛酸を舐めた記憶が、この結果に「失敗」という烙印を、深く鮮やかに押していのだ。

だが、そんな失敗を経て私に降り注いだのは、言葉の織りなす美しい文学世界の鮮烈な光だった。それはまるで涙で全てを拭った後にも残る燐光のようで。

奇しくも私は、失敗によって言葉の美しさを知った。
失敗によって、言葉で表現することの素晴らしさを知った。
当たり前に介していた日本語に対する、尊さを知った。

でもそれは全く同じ失敗をしたとて、誰もが感じることではないのかもしれない。

果たして私は失敗したのだろうか?
否、否、否。万辺否。

私は文学に触れ、止ん事無き表現世界を知れたこと、それを心から「良かったこと」と感じている。その一方で、史学科に進んでいれば違った世界を知ることができたかもしれない。確かにきっとそうだろう。学びとはどんなことだって興味を持つ人に刺激を与えてくれるものだろうから。

行きたいと願った未来に行けたなら、それは目標に対して間違いなく「成功」だ。しかし「成功」は目標にのみ付随されるものなのだろうか?(「その未来が正しかったとは限らない」というのは結果論云々からかけ離れるだけでなく「想像」の域を出ないため、ここでは敢えて語らない。)

失敗には「際限がない」と最初に述べたことを覚えているだろうか。つまり何が言いたいのかというと、失敗には限りない可能性があるのだと思う。極論で言えば、失敗は失敗でないのだ。如何様にも視野を広げて、目標だけに囚われない柔和な価値観を持つことで、運命に切り替えることが出来る。

「私は文学に出逢えたことを運命だと思っている」
嘘偽りなどどこにもない。
たとえ夢を失ったことに代えているとしても。
しかしこれは「良くないこと」が齎した成功だ。
失敗を運命に、知らぬ間に変えることが出来ていた。
そしてその事に今この瞬間、改めて気付かされた。

綺麗事かもしれない。でもそれでいい。
私は綺麗事で救済される人生がいい。
綺麗事を信じることの純朴な美しさを、文学で学んだから。

こうした考え方の一つひとつが私を、そしてこれを読んで共感してくれたかもしれない貴方を、失敗から成功への運命の乗り換えに誘ってくれる。

運命は結果論に過ぎない。
「良いもの」とも「悪いもの」とも言い切ることができない。それを最終的に「良いもの」だったと感ずるには、可能性の視野を広く持つことがきっと、きっと大切なのだ。可能性を狭めてしまうから、人は「失敗」を「失敗」として悔やむのかもしれない。

戻らない時間を消費して成した自分の行為を、自分の行動の結果を「悪いもの」と決めつけるのは勿体ないように感じる。折角生きてきたのだから。

星空のように無限に広がる可能性を一つでも、そっと掬い上げて、「良い」運命を手繰り寄せることが出来たら、形容し難い幸福のかたちがそこにあるに違いない。私はそう信じて前を向いていたい。

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