不良少年少女たちよ、「町」を読もうじゃないか!
こんにちわ、梅雨でも元気いっぱい佐々木だよ🤗
今日は僕の大好きな作家、寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」について書きたいと思います🥰
少し長くなるのごめんなさい🙇♂️🙇♂️🙇♂️
でも寺山修司の魅力を皆さんに頑張ってお伝えしたいので💪
ちょっと長いけど読んでいただける嬉しいです😆
それではどうぞ😚
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この「書を捨てよ、町へ出よう」という作品は、実に不思議な作品である。
「何について書かれた本」かと言われても、即答ができないのだ。
ある時はパチンコを生業とする男たちの美学について、ある時はトルコ風呂に見出される「エデンの園」について、ある時は「プレイボーイ」にならない方法について、寺山修司本人による自らの年表について、自殺について、競馬について、幸福について等々...
上げ出したらキリがないし、書き方もそれぞれ異なる。四つの章のうちの第三章など若きティーンたちの詩を集めただけで寺山の言葉は一切載っていない。だから「この本はこのテーマに沿って描かれている」などという安直なことはもはや言えなくなってしまうのである。
ただもし何かしら「共通項」を見出さなくてはならないのだとしたら、それはタイトルの「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉なのだと思う。
そのテーマは、第二章によく表れている。パチンコのプロたちから彼らの哲学を聞き出し、どこの馬の骨かも分からない酒場で知り合ったおっちゃんと競馬について熱く議論を交わし、トラックドライバーの生き様に時代のやるせなさを思い、風俗嬢の母親に彼女の代わりに手紙を書いたかと思えば、今度はバーのホステスにありもしないボクシングの試合を解説してやり、亡き片目の友を偲んで片目の馬の馬券を買って大穴をあて、オートレースの「速度」に現代人が忘れたものを思い出す。
「昭和の啄木」などと言われた男の生き方は歌人とは思えぬほど実に世俗的で、しかし実に充足感に満ち足りているようであった。そしてそれは何も寺山が俗にいう「下級階級」と呼ばれる連中に同情しているわけでも慈悲心というなの優越感を被った下心を持っているわけでもない。
彼は本気で、心の底から彼らを「知ろうと」している、言い換えれば、町で出会った人々をまるで文学のように「読もう」としているのだ。
いくら仕事に階級があっても、魂にまで階級なんてありはしないのだ。だから寺山は資本主義的な生き方、すなわち常に人々が平均化や安定を求める「バランス主義」だとか言われる生き方を、高度経済成長時の世の中で否定する。
我々が本の中で戯れる「高等」な哲学とやらが、貧しい故郷を捨て去り、大成するという一つの夢だけでを持って状況としたキャバレーのママのもつ人生哲学よりも偉いのだろうか。
デスクワークをして安定的な給料をもつサラリーマンの生き方が、明日死ぬかも分からない「人生」を常にかけて生きている賭博師達よりも高尚なものなのだろうか。
「丸ポチャで、美人じゃなくてもいいから、平凡な女の子と結婚したい(原文ママ)」という信念が、幾度もなく裏切られそれでも「エリザベス・テーラーやペペや、ミレーヌ・ドモンジョのような女の子(原文ママ)」を目指す野心よりも素敵なものなのだろうか。
寺山にしてみれば、どれも否である。
そして初めから全てを諦め、そういう安定した生活(結婚、就職、進学、出産、出世)を求めてしまっている魂は、俗にいう「落伍者」のあのアンステイブルで危険で汚らわしくて、しかし誰よりも生き生きとして自分の人生すらも賭けの対象として楽しむ魂には勝てはしないのだ。
ならば我々「一般人」は、不良少年少女になるべく今ある生活を手放してパチンコや競馬、果ては風俗に全財産つぎ込むべきなのだろうか。
そうではない、それでは希望という根拠なき毒に苛まれて、退屈な日常から逃れるためにそれらを行う「つまらない」サラリーマンとなんら変わりはない。
そこで寺山は「一点豪華主義」を唱える。
「僕はかねがね一点豪華主義論者である。アブラ虫の這いまわる三畳半のアパートぐらしをしているくせに食事だけはレストランでヒレ肉のステーキを食うとか、着るべきスーツはうす汚れた中古の背広一着なのに、スポーツカーはロータス・エランを持っているとかー目も口も小さいのに鼻だけは大きくゆたかであるとか」ー『書を捨てよ、町へ出よう(寺山修司)』
作品のあちこちに出てくるこの言葉の意味は、要するに退屈な日常を突破するには、そうした「アンバランスさ」が必要であるということである。そしてそれは対極に位置する「バランス主義」を打ち砕くものであり、それを打ち破ることこそが僕らの「けものの心」を取り戻させ、「男の中の男」回復させる、というのだ。
高度経済成長、いや、資本主義のシステム化された社会において、まさに「アンチテーゼ」となるような主義である。もちろんこれが全て成功するかと言えばそんなことはない。現に寺山本人もそのことは作中で認めている。しかしやってみる価値は十分にあるし、取り戻すことのできるものはその代償を払ってでも大きい。もう安定的な生活はできないかもしれないが、「あす、何が起こるかわかっていたら、誰が明日まで生きててやるもんですか!」という言葉に代表されるように、「定年」という定められた未来を見据えてせっせと働くサラリーマンたちの憂鬱さは、少なくとも払拭されるのでは何だろうか。そうしてその「アンバランス」な先に、彼らは幸福を見つけることができるのだろう。
ところで寺山はサラリーマンについて論じているとき、ルナールのこんな言葉を引用している。
「幸福とは幸福をさがすことである」ー『ジュール・ルナール』
ライスカレーとラーメンから幸福を見出す無気力なサラリーマンたちを批判した文の最後にこの言葉を持ち出すのだが、私はこの言葉がどうも彼の一点豪華主義と無関係には思えないだ。
寺山は、一点豪華主義の続きとして、僕たちを不良になるよう本作で勧める。もっと言えば、僕らは「プレイボーイ」から「ブレイボーイ(無礼ボーイ)」になれ、というのだ。そしてその章では、こんなことが書かれている。
「石津氏は書いている。『パイプを吸うかたちというのは、思索的な男の一つのポーズである...(本文略)...ポーズなどというものは、他人を意識することである。そして、おしゃれもここから出発する』これは他人志向型の時代にふさわしい思想である。だがキミたちはそんなにいつもポーズをとっていられるか?」ー『書を捨てよ、町へ出よう(寺山修司)』
曰く、くそをする時も、乗車拒否する運ちゃんと掴み合いの喧嘩をする時も、足の水虫をかく時も、ポーズをとるか?とらないだろうよ、という話である。
寺山はさらに続ける。
「ぼくはポーズの効用を過信したくないと思う。いや、むしろポーズこそ、キミをプレイボーイになるように追いこんだり、他人の思惑ばかり気にする主体性なき男をつくったりすることになるのである」ー『書を捨てよ、町へ出よう(寺山修司)』
だからこそ、僕たちはブレイボーイになり、「男の中の男」を復活させなければならない、という話なのだが、これが先ほど紹介したルナールの言葉とどのように繋がってくるのだろうか。
それは体裁を気にし外見を気にしすぎた人間たちが、社会に気力を奪われてもはや退屈な日常を紛らわすにはパチンコか家のカレーライスくらいしかないと思っている人間たちが忘れ去っていたものなのではないだろうか。
彼らは保守的である。プレイボーイは自らの外面を「守り」、サラリーマンたちはバランス主義の延長線上に保たれた安定を「守る」。そしてそれこそが幸福だと信じ、トム・ソーヤのような冒険心は失われてしまっている。
だが幸福とは、幸福を「探す」ことなのだ。
中原中也の詩「無題」にこんな一節がある。
「幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる」ー『無題(中原中也)』
僕は初めてこの詩を読んだ時、「幸福」という客体がなぜ休み、そして理解に富んでいるのだろうかと疑問に思ったものだが、もし幸福が僕たち人間から独立した「客体」ではなく、僕らの中に宿る「主体」なのだとしたらどうだろうか。本当の幸福とは独立した「何か」ではなく、それを感じる「我々」にすでに宿っていて、その幸福は我々が忘れてしまった「冒険心」にこそあったのではないだろうか。
初めて炭酸ジュースを飲んだ時のあの衝撃。
初めて恋をしたあの情動。
初めてカブトムシを捕まえたあのワクワク。
ジュースも恋もカブトムシも「大人」になって心を動かされなくなったのは、彼らが変わったわけじゃなくて、僕らがただ変わってしまっただけなのではないだろうか。
つまるところ、「一点豪華主義」の真の目的は、現状維持という生温いバランス主義にまみれた世界を破壊することではなく、それを甘んじて受け入れている我々自身を破壊することである。そして破壊された私は、今まで「幸福」だと信じていたものに裏切られ、必然的に幸福を「探す」ようになることなのだろう。
かの有名はプロ奢ラレヤーは最近こんなことをツイッターで呟いていた。
「きょう1日の締めくくりに、追い焚きで42℃にしたばかりのお風呂に肩までどっぷりと浸かりながら、キンキンに凍らせた麦茶の溶けたところをゆっくり飲んだ。ぼくは、こうした時間を「しあわせ」と言える状態、それを「幸福」と呼び、そして、これを忘れてしまっている状態のことを「不幸」と呼ぶ。」ー@taichinakaj
幸福の元となるようなものは、すでに僕らの身近に存在している。それを「幸福」だと感じれる人こそが本当に「幸福」な人間なのではないだろうか。
では、その「幸福」を探しに行く第一歩として、僕らは何をすべきなのだろう。
そうだ、僕たちは「書」を捨てて、「町」へ行くべきなのだ。
書は、確かに大切なものである。キュレーターの上妻世海氏も本とは意識と無意識との対話であると説く。
「読書は単に情報を得る手段としてだけでなく、自らの無意識と対話する手段でもあります。」ー『([特別対談]上妻世海×宇野常寛 思想としての「遅いインターネット」上妻世海・宇野常寛)』https://slowinternet.jp/article/20200406/
だがこの悟りに近い行は、日々の生活の中でそんな暇すら与えてくれない社会の中で生きることと並行して行うことは難しい。
だからこそそうした「他者」の思想、それは「自分」という意識も含まれるのだが、そういうものを取っ払って、ただ「きっと何か素晴らしいものに出会えるに違いない」という気持ちだけを持って、まずは町へ出ていくのだ。
「いつもと同じ街なんてつまらない」
「どーせいつもと変わりなんかしないよ」
「楽しいことなんてスポッチャかららぽーとにしかない」
そう不平不満を唱える読者諸君も大勢いるだろう(ところでこの三行目で気付く方もいるだろうが僕は随分な田舎に住んでいる)。
ここで少しカフカの文を紹介したい。
「お前が家を出て行く必要は無い。じっとお前のデスクに坐って、耳を澄ますがいい。耳を澄ますこともない、ただ待つがいい。待つこともない、すっかり黙って、ひとりでいるがいい。世界はお前の前に姿を現し、仮面を脱ぐだろう。世界はそうするほかないのだ。恍惚として、世界はお前の前で身をくねらすことだろう」ー『夢・アフォリズム・詩(フランツ・カフカ』
彼のこの考えはこの「書を捨てよ、町へ出よう」という考えの究極形態とも言えるだろう。世界という場所が私たちの主体的認識のみで成立しているなどという思いあがって近代西洋思想を根本から否定し、そうして地理的には有限でも、「世界」そのものはどこまでも無限に続いているという「絶対矛盾的自己同一性」をはらんだ僕たちの「世界」は、僕たちの偏見や主観を取り除くことによってその姿を表してくれる。それは僕たちが普段忘れていたり無意識のうちに除外してしまったものたちでもあり、だからこそ僕らは保守的な考えを改めさせられる。
だがカフカのように、何もその世界の姿を「不条理」だと言って絶望する必要はないのだ(本当にカフカが不条理に絶望していたかは怪しいが、教科書にそう書いてあったような気がするのでそう言うことにしておこう)。いや、不条理だからこそ、予測できないからこそ、僕たちの想像もしていなかったような面白い出来事が起きるのだ。
町へ繰り出すのは、その偶然性によって導かれた「面白さ」のかけらを拾い集めるためだ。そうしてそのかけらが集まった時、僕たちは「幸福」の痕跡を自分の中に見出す。
昔デートで行ったアイスクリーム屋の前で思い出を懐かしむもよし。
学校のグラウンドで部活動に励む学生たちを見て元気をもらうもよし。
居酒屋に行って隣のおじさんに話しかけるもよし。
競馬に行くもよし。
近所の新しくできたお店に行くもよし。
そうして無気力さから解放されれば、世界が少し変わって見えてくるのではないだろうか。
一点豪華主義が現状を破壊した時、そこには僕らの見つけることのできなかった幸福が見えやすくなってくるはずだ。そしてその幸福は、初めから僕たちの身近にあったものなのだ。
だから不良少年少女たちよ、一点豪華主義になろう!
この世界に「幸福」を探す冒険に出かけよう!
バランス主義なんて体のいい幻想を打ち砕こう!
そしてその取っ掛かりとしてまずは書を捨てて、誰の言葉も借りずに町へ繰り出そう!
そうしてこの抑圧された社会に「反抗」の兆しを見せつけてやろうじゃないか!
僕らの敵は資本主義でも国家でも犯罪者でもなく、幸福を隠してしまったこの社会と自分自身なのだから。
だから僕らはまるで書物を読むように町を「読む」。何度も何度も読んでいくうちに、自分だけの「幸福」を、必ず見つけられるはずだから。
最後に僕の好きな森鴎外の小説「高瀬舟」にも登場するお釈迦様の言葉を残して終わりにしたいと思う。
「吾唯足知(我、ただ足るを知る)」ー釈尊
皆に、君、そして僕に栄光と幸福あれ。
佐々木
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※カバー写真の禍々しいミッフィーはオランダのアムステルダムで撮ったものである。街へ繰り出したらこんな変なものが建っていて面白かった。