歪んでも、なおそれを愛と呼ぶ 18
Before…
【二十四】
自身の血で塗れた紙のうち、「1」と書かれたものを開いた。そこには青海一家代表として、薫の母からの直筆で手紙が書かれていた。
藤瀬 陽さんへ
この度は辛い思いをさせて本当に申し訳ありませんでした。薫の願いを叶えてくれて、ありがとうございました。心から感謝しています。あの子は元気だったけど我儘な一面もあって、また自信家でもあったのです。だから、あの子は脆かった。よく電話もしてきてたの。でも、負けないって言って電話を切るのです。今回、陽さんみたいな素敵な人に出会えて、負けちゃったのよね。私達で良ければ、貴方の家族にさせて下さい。
青海家一同 代表 青海雪
隅に血が滲んだ手紙を読んで、陽は何度流したか分からない涙を流して秀太を抱き締めた。
「有難い、青海さん、有難い。だけど、私にはそんな資格は無い。とても嬉しい。初めてお会いした時、楽園のような団欒の食卓に御一緒させてもらってから、ずっと夢見ていたことです。でも、薫の席に私が座ることは、私以外の誰もが許しても、私は許すことができない。申し訳ない。申し訳ないです…。」
秀太は陽の涙と鼻水、そして血を制服に染み込ませながら、もう一枚の手紙を開くよう促した。
「まぁさ、結論出すのはこれ読んでからでも遅くねぇぜ。」
紙の半分近くは血でべっとりとしていたが、破れることなく開けた。そして、読んだ。陽は人生で流し続けたどの涙よりも、清らかに透き通った涙を流して慟哭した。
陽へ
今回のこと、本当にごめんね。私の願いを叶えてくれてありがとう。私はずっと、陽のことが好き。今でも変わらない。むしろ、あの夜がてっぺんだと思ってたけど、今はもっと高いところにいる。会いたいよ、陽、会いたいよ。早く帰ってきて。八月最後の夜に私を送ってくれたから、今度は私が迎えに行って、その先を見届けるよ。だから、早く私の前に姿を見せて。待ってるからね。
十月三十一日 青海 薫より
【二十五】
ある日、秀太と宗次は、例のおでん屋で飲み明かしていた。
「陽、青海の実家がやってる鮮魚店で一緒に働いてるみたいっす。」
藤瀬陽は、四月末に独房を出た。「何故?」という問には、看守長が答えてくれた。
「君はね、殺人未遂でここにいたんだ。だけど、青海さん一家からの和解が成立しているから、執行猶予判定でここにいる必要は無かった。だけど、すぐに娑婆へ出すには条件が厳し過ぎた。」
「一応確認させて下さい。何が…?」
「まず第一に、青海薫の精神状態が不安定だった。彼女の精神が再起したのが十月の末。あの手紙は彼女が完全に再起した証だ。」
陽は頷きながら、続きを待った。
「そして第二に、君が発狂に近い情緒不安定だったことだ。君をすぐに世間に放てば、自殺する可能性が極めて高かった。だから、青海薫が生きていることはすぐには伝えなかった。宗次さんに止められててね。二人が共に健康に再起するには、君の精神安定が必須だった。そして、自分と向き合い続けて、遂に再起を果たした。まず無いと思うけど、執行猶予期間中だから、一切の犯罪を起こさないこと。宗次さんと山辺を、裏切ることになるよ。」
陽は深々とお辞儀をして、迎えに来た女性を熱く抱擁した。同じ量の熱意で抱擁が返ってくる。
「薫、ごめん。そして、ありがとう。待たせて悪かった。」
「陽、謝るのは私。こんな仕打ち、陽が負うべきじゃなかった。陽のお陰で、生まれ変わって新しい人生歩けてるんだよ。あの時陽が叶えてくれなかったら、私はきっと本当に死んでた。ありがとう。」
涙で腫れた目の二人を、看守長は笑って手を振って見送った。二人が見えなくなるまで、手を振った。
秀太は糸こんにゃくを頬張りながら、激動のあの時を振り返る。そして、手紙を渡した。封筒には「青海薫・青海陽より」と書かれている。
内容は二人への感謝の言葉と、現状の伝達だった。
宗次はビールをぐっと煽り、煙草に火を点けて祝福する。
「めでてぇこった。おめぇも、よく頑張ったな。」
真っ直ぐな褒め言葉に、照れ臭さを隠しながら続いて煙草に火を点ける。
「良かったっすね、ほんと。俺も色々やらかしちまったけど、全部放免にしてもらえましたし。この厳しい世の中で、囚人に蹴り入れたりなんかしたら普通大ごとっすよね。」
「ありゃ仕方ねぇよ。ただ言ってることはご尤もだ。だから俺は隠居したんだ。まぁ、久々の前線は中々刺激的で老いぼれには丁度良かったぜ。」
少し冷めたはんぺんを一口で食べながら、宗次は語る。
「次はおめぇさんの代の番だ。若いのは順応力高いからな。時代に上手く乗って、俺の渾名背負ってくれや。」
「鬼仏、ですか。俺には少々重過ぎますけどね。まだ三十っすよ。」
「年なんざ関係ねぇよ。根性据わってるかどうかだ。」
お代わりのビールを秀太が二つのグラスに注ぐ。宗次は勿論だが、秀太も翌日は休みなので、二人で飲み明かすつもりだ。少し肌寒くなってきた季節柄、熱々のおでんとキンキンに冷えたビールは最高の一言に尽きた。
「そうだ、秀太おめぇ、看守んなったのは一冊の本がきっかけって言ってたな。覚えてっか?」
「覚えてますよ。あの時はどう答えようか悩んで必死でしたから。成り行きなんて言った日にはぶっ飛ばされるかなぁって。」
「別に俺は何でも良かったんだけどな。寧ろその適当な具合が丁度良いんだよ。結局正直に気付いたらなってたって白状したじゃねぇか。その道一本でしかやってねぇ奴は、決まった仕来り通りにしか動けねぇ。中井も大分柔軟になったもんだ。これやるから、頑張れよ。」
差し出された本は、年季の入った古い本だった。栞が挟んである。秀太は茹で卵を一口でぱくっと食べ、栞の挟まったページを見て、笑った。
「高瀬舟」