ほろ酔いゲシュタルト 01
Prologue…
【一】
目を開いた。照明が落ちた「四ツ谷駅」の看板。都会だというのに誰もおらず、周囲の建物は全てが黒洞々としている。
「あァ、娑婆の空気!何と懐かしい、そして何と濁ッてしまったものか。」
ターバンのように頭に巻き付いた蛇は、俺の首元に這ってチロチロと舌を出してはしまう。
「俺、戻ってきたのか?」
「見りャァ解るじゃろ若僧。貴様、名を忘れたようじャな?」
言われてみれば、自分の名が思い浮かばない。
「そうだな、分からない。まぁ生き返ったからいいんだが。」
名前なんてどうでもいい。闇に溶ける蛇が巻き付く頭には、まだあの地で味わった激痛の名残が残響となって残っている。
「かかッ。じャが流石よのう、もう我輩に会いに来てくれるとは。ほォれ見てみい。親方のお出ましじャよ。」
言われるがまま見ると、「四ツ谷駅」の駅舎の向こうから、不気味に青白く光る巨大な骸骨がこちらを見ている。
「何と情けない、餓者との謁見で腰を抜かすとは。」
腰が抜けて立てない。見ると俺は下駄を履いていて、黒装束に身を包んでいる。こんな服は着たことが無いし、下駄を履いたのなんて子供の頃以来である。その骸骨は地に響くような低い声を真っ暗な夜空に響かせる。
「蛇よ、戻るにはまだまだ早過ぎるぞ。」
「旦那ァ、我輩だッて随分と思考を改め直したんじャぜ。八分の一しか無いこの頭で何度も脱皮して、川の畔に皮を流して考えに考えた。結果、迷える若僧に救いの手、いや救いの皮を差し伸べたんじャよォ?」
何を言ってるんだこの化物共は。考えてみれば頭を丸々巻いてそれでも尚有り余るこの大蛇も、立派な化物だ。
「名も無き若僧よ、我が同胞の蛇が驚かせた事は大変失礼した。貴様は黄泉に送られて安らかに眠ることも出来ただろうに。蛇よ、魂を誑かして現世へ戻した贖いの支度は整っておるか?」
「迷える魂を導いたッて言ッてくんねェか旦那?此奴かて死を本望とはしてねェぜ。我輩は片割れの頭で迷う魂を導いたッて事よ。」
「だがな蛇よ、貴様の怨念は余りに深く、暗く、黒過ぎる。貴様が死ぬ前の身体は銀と言って差し支えない程に純白だった。それが今や怨嗟に呑まれて闇と区別がつかぬでは無いか。蛇は呑む側に立つべきだ。それがその様は何だ?」
…もう我慢出来ない。
「化物共、お前ら何言ってんだよ!?俺の事教えてくれよ、どうなってんだよ今は!?」
ガタガタと軋む巨大な髑髏は、ギギィと不気味な音を立てて頭蓋骨をこちらに向けた。
「おぉ申し訳ない、人の霊。我は餓者髑髏と申す。貴様は蛇の狂言に唆されて戻った訳では無いと、誠の心で我に言えるか?」
流れ切ったと思った血が滾る。燃える。生きている時には一度も燃えた事が無かった、誠の心。
「あぁ、言えるさ!死んだ方がマシだって思って死んでみたらとんでもなかった、生きたいって思ったんだ!それにな、この蛇の気持ちが半分しか無い俺の脳に沁み込んできた。この蛇は恨み辛み憎しみの中にほんの少しだけ、切なさを抱えてる。境界を彷徨う彼らを助けてと俺に縋ったんだ。俺が縋ったんじゃない!」
ギィ、と髑髏は少しだけ角度を変えて蛇を見る。
「ほう、よかろう蛇よ。貴様には丁度良い相方がいる。人に惚れられて人に惚れ、生者を相手に妖力を翳した者だ。そして人の霊、主にもひとり相方を寄越そう。妖に魅入られ妖に魅入り、我々の世界へ踏み入った人だった妖である。」
ひと際重く低い音でこちらへ手を伸ばすと、掌には少女と、少女の頭に乗る狐がいた。
「彼奴等を我の使いとして貴様等に付ける。妖狐は類稀なる妖力を誇り、人と接して真の優しさを知った。この幼き座敷童は生前居場所を見出せず、妖と出会ったが為に居場所と存在意義を見出した。人の霊、貴様はこの童から諸々を学べ。そして蘇った意味を探せ。期限は蛇と契った五十年だ。千切られた蛇の想いを変えられた暁には、貴様の望みを一つ叶えよう。それで良いか?」
座敷童と呼ばれた少女は、人間で言えばまだ十代半ばといったところだろう。狐はふさふさのしっぽが九本。九尾の狐ってやつかな。
「あぁ、分かった。餓者髑髏様の言う通りこの蛇が怨霊でしか無いのなら、俺がこの蛇を抱えてどこへでも行ってやる。条件を呑もう。」
「よかろう。だが人の霊、時というものは残酷に過ぎる。置き去りにされる前に答えを見つけよ。我は全てを見ているからな。」
「ッしャァ旦那、交渉成立。我輩とて戻ッたからには嘘は申さぬ。この若僧の言葉も真理じャ。約束を千切り捨てはせぬ。」
霧のようにふっと餓者髑髏は消えた。残された俺と蛇、座敷童と狐。少女は正に無垢、という言葉が相応しい。端麗な容姿で、無邪気な言葉で俺に語りかける。
「初めまして元人間さん!私、この世界に入ってから人間さんの霊に会うのは初めてなんだ!アヤって呼んで、よろしくね!」
「あぁ、よろしく。俺も何が何だか分からないが、仲良くしてくれると嬉しい。」
アヤと名乗る座敷童に差し出された手を握った。氷のような冷たさだったが、握手している内にすぐ温かくなった。
「アヤ、いつになくはしゃいでるね。こっちにも大分慣れて、すっごく楽しそーだ。初めましてかな、蛇さん。僕は九尾の狐、名前はコン介。可愛いでしょ?」
「かかッ、可愛い名じャ。我輩は蛇神と崇められた時代を生きていた。じャが飢饉に襲われ、蛇神の力は取るに足らぬと腐れ小童に八ツ裂きにされた。現世に戻れただけで十二分じャよ。よろしくのォ。」
「とりあえずさ、夜はまだ長いしここ出ようよ。私ここ嫌いなんだ。」
アヤの言葉で我々一行は当ても無く歩き出した。辺りは依然として誰もおらず、見慣れたはずの都会は闇に包まれたままだ。
「がしゃくんから聞いた話だと、蛇さんは昔は僕みたいにきれーな真っ白だったのに、真っ黒になっちゃったんだってね。そんなに憎かったの?人間のこと。」
蛇はからからと笑って俺の首元で揺れる。ブランコ、とは少し違うが楽しそうだ。
「かかかかッ、そりャァ憎かッたとも。我輩を祀るだけ祀り上げて、恵みは神のお陰、災いも神の怒りじャと抜かしよる。我輩はただのんびりと生きとッただけじャわい。神の末路が餓鬼の玩具とはなァ。まァええ。この可哀想な若僧に情が芽生え、この若僧もまた我輩の情を感じ取ッたのじャ。我輩は知りたいのじャよ。アヤと言ッたな童。アヤは知らぬのだよ。この世には死に損ねた亡霊が数多と彷徨ッている。彼奴等の救いとは如何なものか。」
「私は、亡霊になってしまう前に救ってあげたくてこの世界に来ました。コン介を愛して、私みたいな目に遭う人に少しでも幸福を届けたくて。」
「かかッ、善い事じャ。この若僧のような死んだ方がマシなんて抜かしよる魂を救ッてやれ。それで我輩の心を揺らせるのならば認めよォ。我輩は思うのじャ。幸せにする事だけが救いとは限らぬのだよ。怨嗟の連鎖に身を委ねる事で救われる者もいるのじャと。我輩のようにな。だから付き合って貰うぞ御三方。我輩の想いを変えてみせよォ。」
重い話だが、俺が感じたあの激痛の渦に一滴の涙が混ざったような切なさは取り戻した脳にひしと刻まれている。俺には、何が出来るのだろうか。
「とりあえずさー、蛇さんと若僧さん。君たち名前無いの?なんて呼べばいーか分かんないし仲良くなりにくいし、名前決めたら?名前があればきっと気持ち変わるよ。僕みたいに。ねー、アヤ!」
狐はぴょこんとアヤの頭の上に乗ってしっぽをアヤに預けた。
「やーっぱりコン介のもふもふは最高だよ!コン介って私があげた名前なんだ。とっさに思いついた名前だったけどコン介はすっごく気に入ってくれてさ。そのお陰で今がある。だから名前って、とっても大切だよ。幽霊さん、蛇さんに名前あげて。はいっ!」
何という無茶振りだ。自分の子すら持ったことも無ければペットを飼ったことも無い俺に、重要な名前を託せと?
「えぇ、えーっと…。会った時には右脚に、そんで今の今も頭に、ずっと巻き付いてるからなぁ…。とぐろ、なんてどう?」
蛇は俺の元から離れて着地し、その長大な体躯で蜷局を巻いて見せた。改めて見るとでっかい蛇だ。
「蜷局、か。かかかかかッ、大層気に入ったぞ若僧ォ!あの餓者の旦那と並んだ様な心地じャわい!ならば若僧、この名をやろう。とッておきじャ。」
長い身体を俺に向かって素早く伸ばし、俺の耳元で細く囁いた。
「アマタ、若僧はたった今よりアマタじャ。八岐大蛇伝説を知っておるか?酒を嫌う伝説の大蛇神じャ。其処からちョいと失敬しよォ。現世で迷える数多の魂を、頭が戻ったアマタ。貴様なりのやり方で救ってみせよォ!」
蜷局と、アマタ。アヤとコン介に名乗ると「分かりやすいしかっこいーじゃん!」と気に入ってくれたようだ。何より、一度失われた五十年という時を俺に返してくれたこの大蛇が名を気に入ってくれて良かった。
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