ほろ酔いゲシュタルト 11
Before…
【十一】
何かが落下した音に遅れて、「チリリン」と細い風鈴が鳴った八月最後の日曜日の夜。そっと開いた扉の向こうにいたのは、辛うじて「人間」と呼べそうな塊だった。手足はあらぬ方向へと曲がり、血溜まりに沈みながらこちらを見上げる顔。とても痛いと訴える眼差し。なんだか懐かしい。そして、まだ人間と呼んでも許されそうな肉塊へと言葉を贈る。
「いらっしゃい、辛いだろう。俺はアマタ。君も迷ってしまったんだね。取り敢えず少しでも楽にしてやろう。」
声にならない、言葉では表現できない呻き声を上げる真っ赤なそれを背負って、事務所の風呂場へ連れて行った。
「傷に沁みるだろうが少し頑張ってくれ。悪いが蜷局、手を貸してくれないか。」
「蛇使いの荒い奴じャわァ。ちョい待て。」
黒装束の長身に化けた蜷局と共に、コン介が用意してくれた石鹸で優しく傷口を洗ってあげた。変な方向へと曲がってしまった手足を戻すことは出来ないが、一時的に傷を塞ぐ事くらいなら何とかなりそうだ。
かなり時間がかかってしまったが、何とか止血する事には成功した。綺麗になった「彼女」は、関節が不気味に曲がってしまった腕で茶を飲み、部屋を見渡す。
「ここは…?」
「簡単に言うと死ぬか生きるかの境目だ。風鈴の音からするに、君はまだ死んではいない。だがさっきの惨たらしい姿を見る限りでは、死ぬのはそう遠くない。そうだろ?」
頷いたのはコン介だった。
「もってあと一日だろーね。あんだけぼろぼろだとね。」
彼女に説明を求めると、思いの外すんなりと話してくれた。
生きるのが、これ以上ないくらい辛くなった。
自分が辛いのはまだいい。だけど、顔も知らないのに仲良くしてくれる人が辛い思いをしていることが耐えられないくらい辛いんだ。
ボクは遊びに誘うような友達はいない。だけど画面を通して親しくしてくれる人は沢山いる。共通の趣味を通じて仲良くなった人達だ。この人達はとにかく大切にしていきたい。ボクだって散々救われたんだから。
話を聞いてもらうだけで心が軽くなる事を知った。周りで面と向かって話を聞いてくれる人なんていなかったから知らなかった。些細な事でも深く振り返っては塞ぎ込んでしまうボクに連絡先を教えてくれて、画面を通して直接言葉をくれて、ボクの泣き言を受け入れてくれた人に凄く感謝した。
ボクはされて嬉しかった事をしようと試みた。お陰で「ありがとう」を言われる機会が増えて嬉しくなった。ボクだって誰かの支えになれるんだって思った。だけど段々、ボクが受け止めた重しを手放す方法が分からなくなってきた。他人事と自分事の区別がつかなくなってきた。八月の終わり頃になると「相談したい」って若い子から話を聞く事が更に増えた。ボクは必死でその人達の救いになろうとした。
でも一人救えなかった。直接会いたいって言われて、会ってお礼を言われた。その人は響く警報機の前で「聞いてくれてありがとう、後悔は無いです」って残して、特急列車に飛び込んだ。その人は吹っ飛んで闇の奥へと消えていった。ボクがもしその人を中途半端に助けようとしなければ、その人に手を差し伸べるような烏滸がましい真似しなければ、その人はまだ生きてたんじゃないかなって思うんだ。だから、ボクはその人を追い掛けた。凄く高い所から飛び降りてみた。アスファルトが目の前に迫った時、全身が叩きつけられる前に、一瞬だけ玄関灯みたいな光が見えた。全身がぐちゃぐちゃになってすっごく痛くて、ボク死に損ねたって思った時にこの入口があったんだ。そこからは皆が見てきた通りさ。
「そっか…。」
アヤが、彼女の回想明けに相槌を打った。
「ボクさ、高校出て田舎から上京したんだ。友達なんて元々いなかったし。でも田舎で友達作れないようなのが都会で出来るはずもなくて。ずっと続けてたSNSで親しくしてくれる人がとっても大切だった。二十代になっても、十代から仲良かった人とずっと繋がって楽しくやってた。新しく仲良くなれた人もちょいちょいいてさ。話聞いてもらう側から聞く側になってからしんどくて。私もこんな思いさせてたのかって考えると死にたくなったんだ。」
ひしゃげた脚は姿勢良く座る事すらさせてくれないようで、歪な姿勢で佇む彼女。シンとした静寂に、季節を少し先取りした鈴虫の声が微かに鳴る。
優しい女性だ。自分がされて嬉しい事をしようと一生懸命になっていたのだろう。生前の俺とはとても対照的である。何となく、誰の為にでもなく生きていた俺。誰かの為に生きて、閾値を超えてしまった彼女。
「今日はもう、眠りィな。」
蜷局の声で我に返ると、人間に化けた妖コンビが布団を敷いていた。
「あと一日はあるからさー、とりあえずゆっくりしなよ。そのかっこじゃ座ってても辛いでしょ?寝苦しいかもしれないけど、まず気持ちを整理してからどっち行くか決めても遅くないよ。」
彼女は「ありがと」と告げて、ぼろぼろの身体を引き摺って何とか布団まで辿り着き、動かし辛そうな両手両足で中へ潜ってすぅすぅ寝息を立て始めた。
「アマタ、今宵は付き合え。アヤと九尾殿は先に眠ッててくれ。我輩等で寝ずの番をする。迎えが来た時はこの女を行くべき場所へと導こう。」
「うん、分かった。たまには二人でゆっくりお話したいんだね。冷蔵庫にお団子とお茶あるから好きに食べていいよ。コン介、寝よ。」
少しばかり不満そうなコン介だったが、アヤに抱えられて渋々仕切り戸を閉めてくれた。
「珍しいな。何か思う事でもあるのかい?」
蜷局の表情はどこか穏やかだ。
「いやァな、アマタよ。お前と初めて会ッた時を思い出してな。お前も我輩の前に現れた時はこんなんじャッたなァと。あれから全然月日は経ッていないというのにのォ。」
「奇遇だな、俺も同じ事を思ってた。でもこの女性は俺と真逆の立場でここに現れた。課された使命、と言うと大袈裟だけどさ。自分のやるべき事をやり抜いて選んだ結末だ。死んでから使命を見つけた俺と、生きてる間にやり通した彼女。素直に尊敬する。」
「かかッ。結末を決めるにャまだ早いぞ、気が早い奴め。まァ見ておれ。」
それから朝まで他愛もない話を続けた。あっという間に時間は流れてしまった。迎えが来る事は無かった。きっと五十年という歳月も、こんな感じで過ぎ去ってしまうのだろう。
朝焼けと共にアヤとコン介も起きてきた。
「悪い事、してないだろーね?」
コン介は少々怪訝な顔だが、やましい事なんて何もしていない。アヤも分かってくれている。続いて彼女も起きた。
「相変わらずしんどそうだな。肩、貸そうか?」
「いえ、大丈夫です。ボクだけで何とかしないといけない。ボクが選んだんだから。」
ずたずたの身体でも強靭な精神だ。全員で奥の部屋へ集まり、蜷局が箱を開いた。
「この光景を見てから結末を決めェ。貴様は、決して独りではない。」
蓋の中を覗き込むと、中には病室で瞳を閉じる彼女がいる。
「ボクだ…。どうして?」
「今の君は魂だけだからね。この中にいる君はまだ死んでない。あそこに戻ればまだ生きられるし、あそこを拒めば死ねる。決めるのは君だよ。」
コン介の解説に首を傾げる彼女。傾けた首から鈍い音がしたが、聞こえなかった事にしておこう。その時、病室の扉が開いた。入ってきたのは彼女とそう歳が変わらない男性だった。声はここまで届かないが、変わり果てた姿の彼女を見て崩れ落ちた。
「あの人…。ボクの彼氏だ。真に受けてなかったけどアイコン変えてたから知ってる。直接会った事は無いけど、すっごく仲良くしてくれた人。」
「きっとあの人、悲しんでるよ。されて嬉しい事は精一杯やってきたじゃないか。されて嫌な事はするもんじゃない、寝覚めが悪くなるよ。俺も偉そうな事言える身じゃないけど、貴方は凄い人だよ。俺は生きている間に誰かの為になんて考えた事無くてさ、死んで初めて役に立ちたいって思ったんだ。」
蜷局も続く。
「左様。貴様は置き去りにされた事に耐え切れず自死を選択したのじャろォ?ならば置き去りにされた者の感情は知ッているな?故に、あの男の心も解ッてやれ。」
彼女はふっと笑って、バキボキと骨を軋ませて無理矢理箱に全身を押し込めて身体へと帰っていった。声がここまで届く。
「…ごめんね、辛い思いさせて。ボクは君を置いて行ったりしないから。」
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