好きなことに囲まれるという現代社会。できま線という結界。
好きなことをして生きていく。
とても大切なことだけれども、
勘違いを起こす可能性もある言葉。
YouTuberという職業なんて、
いまの大人と言われる人たちが子どものころにはなかったものだ。
当たり前の基準が違う
いまの高校生は生まれた時からスマホがある世の中が
当たり前なのかもしれない。
スマホは本当に便利だ。
指先一つで、世界中とつながることができる。
それこそ、何億というお金も、指先一つ。
観たい動画は、映画館に行ったり、
ビデオデッキを準備しなくても観ることができる。
見えないようで見えている。
遠いようで近い。
そんな世界が手の中にあるのが当たり前なんだ。
それぞれのコンフォート
それは同時に、情報を選ぶことができるということでもあります。
好きな情報、求めている情報を取りに行く。
好きな人のYouTubeを見る。
好きな人のライブ配信を見る。
好きな人の好きな人たちと交流をする。
そして教育の中でも、
過度な競争はしない。
個性を大事にする。
強制はしない。
という流れがある。
ちょっと前には、
授業中の先生に対して暴力をふるった高校生がいた。
体罰を含めて、厳しい指導ができないとわかっているからこそ、
起きてしまった暴力事件だ。
いまの世の中は、
好きなことであふれていて、
すごく快適なもので周りを固めて、
自分にとって都合の悪いものを排除しても生きていける。
自分の好きなもの、好きなことで自分の周りを固める。
入ってくる情報さえもそればかりでよい。
見たいものを見て、
見たくないものを見ない、
ということがしやすい世界だ。
「線」を引くのはいつも自分
どれだけでも広がる手の平の中で、
自分で制限をかけている。
見たいものしか見なくてもいいし、
都合がよくなければ、
人それぞれ。
個性が大事。
とうまく解釈すれば、自分で納得する。
自分にとって都合が悪いものは入ってこないし、見ようとしない。
なんなら、自分にとって都合がいいものを探して、
安心して生きている。
できま線
やりま線
わかっているけど、そこまでしたくありま線
という線を引いているのはいつも自分だったりする。
知らず知らずのうちに、
自分の掌の中で選択したものによって、
自分の世界観を狭く、制限しているのかもしれない。
生きることと生きていくこと
好きなことをして生きることはできるかもしれない。
でも生きていくことというのは、
必ずしも好きなことばかりであふれているわけではなさそうだ。
清濁併せ吞む、ではないが、
多少なりとも社会とのかかわりを持ちながら、
社会構成員の一人として生きていくには、
好きなことや好きな人ばかりで周りを固めるのは難しい。
万人が好きなことばかりで生きていけるのが理想かもしれないが、
好きなことをしていても、
多少なりともつらいことやしんどいことはある。
思い通りにならないし、
諦めながらただ過ぎ去っていく日々になる可能性もある。
私だって好きなはずのハンドボールをしていても、
しんどい時も、やめたいときも、何かにイラついているときもあった。
好きなことばかりではなく、
ちょっと違うものと出合った時、
しんどいことを乗り越えた時、
人は世界観が広がるのかもしれない。
成長できるのかもしれない。
知らないから嫌い。
知らないから認めない。
は違う。
いろいろな価値観に触れて、
知らなかったことを知って、
少しつらいことを乗り越えたその先を目指したり、
好きなことを見つめなおして、
よりそれが好きになったりして、
「生きていく」のだと思う。
まとめ
好きなものであふれているのは悪いことではない。
ただ、自分で自分への制限をかけて、
結界を張るようなことがあってはもったいない。
知らず知らずのうちに、
自分のポテンシャルを自分で制限することがないように、
好きではないから、という理由で
そのものを拒否したり、嫌ったりする人間にはならないようにしたい。