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#映画感想文296 『千年女優』(2001)

映画『千年女優』(2001)の再上映を映画館で観てきた。

監督・脚本は今敏、2001年製作、87分、日本のアニメーション映画である。

今敏監督は2010年に膵臓癌により、46歳という若さで早逝されている。彼が生きていたら、日本のアニメーションは違う進化を遂げていたのではないかと何度も人々に思わせる、偉大な監督であったと思う。

わたしは『パーフェクトブルー』に衝撃を受け、『パプリカ』には胸をざわざわさせられて、正直なところ、『東京ゴッドファーザーズ』と『千年女優』はちょっと退屈だった。映画館ではなく、レンタルDVDで鑑賞していたはずなのだが、よく覚えていなかった。映画を鑑賞しながら、今回、何も覚えていない原因は、ストーリーテリング、あらすじがないことが原因だったかもしれないと気が付く。

『千年女優』では映画スターである藤原千代子が、さまざまな作品を演じていく。千代子という名前がその体を表している。

平安時代のお姫様から、戦国時代のくノ一、戦前戦中戦後、満州事変、高度経済成長期の家族映画、怪獣と闘う科学者、宇宙飛行士まで、あらゆる役柄を千代子は演じる。千代子本人は、戦時中の思想犯として警察に追われていた絵描きに恋をして、人生をかけて、彼を探し続けていく。しかし、これも、現実のように描かれているだけ、という気がしないでもない。

「あの人に千年かけて会いに行くの」という一途な思いはキラキラした初恋であったはずなのに、どこか狂気じみて、やがて呪いとなっていく。それでも、彼女は走り続ける。この映画は、映画そのものを描いた映画でもある。何かを追う人間、走る人間の姿、駆ける馬、その動きを観ると、映画はそれだけで面白いことがわかる。活動写真そのものの快楽を描くという狙いもあったのだろう。彼女がひたすらに走り、角を曲がり、街や野山を駆け抜ける姿はそれだけで鮮やかだ。

あるとき、千代子は彼を追うことをやめる。彼と出会ったときの当時の美しいわたしはどこにもいない。老いた自分を見られたくない。彼女は彼を追うことをやめ、女優もやめ、外界との接触を遮断し、隠遁生活に入る。映画は、千代子のドキュメンタリー番組を撮るために、製作会社の社長とカメラマンがやってくるところから始まる。

昭和の大スターで、隠居生活に入った女優といえば、原節子が代表格だろう。彼女は生涯独身で小津安二郎映画には欠かせない女優だった。小津が亡くなってからは、映画界に戻ることはなかった。この映画は原節子を描いているのだろうかと思って見始めたのだが、それとは少し趣きが違うことが徐々にわかる。

それが最後の千代子の台詞に凝縮されており、ぎょっとして、感動しながらも、ちょっと笑ってしまった。

「だって、わたしはあの人を追いかけている自分が一番好きなんだもの」とつぶやき、千代子は千年の時間から飛び立つ。

女優の生き方とは自己陶酔(ナルシシズム)であり、それが彼女の生き様であり、それを描いたのが『千年女優』という映画であったことが最後に明らかにされる。

メタメタな構造の映画であり、それが十代のわたしにはピンときていなかったのだろう、と思われる。

そして、藤原千代子は原節子ではなく、大竹しのぶだとわかる。大竹しのぶは、現実と虚構と、メタ視点とそうでない視点の境界があいまいな人に見えるように、日頃から、自分をそのような人物として他人に見せている人だと、わたしは思っている。

昔、『とんねるずのみなさんのおかげでした』という番組の食わず嫌いのコーナーで、「嫌いなものを平気な顔して食べるなんて(演技は)できない」とにこにこしながら言って、このゲームを端から放棄したのは、大竹しのぶと蒼井優だけであったと記憶している。

「こんなところで演技なんかしないわよ」という女優の演技をしている女優がそこにはいた。演技しないことを演技している演技を見せられて、大変怖い思いをした。

それから、わたしは、この二人には、ほかの女優にはない圧倒的な狂気を感じている。

つまり、『千年女優』とは、女優が演じること、女優の生態を描いた映画でもある。大竹しのぶの実写版リメイクなら、さらなる狂気が存分に味わえるだろう、と思う。

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佐藤芽衣
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