第3週 金曜日 芸術家 吉田隆子
芸術家の3人目は歴史上の人物になりますが、
日本の作曲家吉田隆子さんをとりあげます。
吉田 隆子(よしだ たかこ)さんは1910年2月12日 東京目黒のお生まれです。
父の吉田平太郎は陸軍少将で豊後国出身で日露戦争で活躍し陸軍騎兵実施学校校長でした。お兄さん正さんがいらして有名な映画評論家です。
隆子さんは4歳から山田流箏曲を習っています。
青山師範学校附属尋常小学校(現東京学芸大学附属世田谷小学校)入学。1919年、父の渡満に伴い一家で東京市芝区高輪南町に転居、南高輪尋常小学校(現・森村学園初等部)に転校しています。
西洋音楽と出会うのは高校生の時で、納所弁次郎氏からピアノを習います。
おにいさん正氏の意向で人形劇団プークの鳥山榛名と婚約させられるも、のち隆子さんから破談にするという出来事が高校卒業後あったそうです。鳥山は後に隆子の妹の敏子と結婚した。
またこのころ、音楽学者の田村寛貞氏のもとでハーモニーを習い、南葵音楽文庫に通って音楽を学び、アテネフランセでフランス語を習っています。
そして人形劇サークル「ラ・クルーボ」での活動を経て、1931年、築地小劇場に通い始めます。その後人形劇の音楽を作るきっかけとなります。
1927年、ピアノを在日フランス人のローゼンスタント氏に師事。のち橋本國彦氏の門人となり、1931年、21歳の時デビュー作「カノーネ」の楽譜が橋本氏の推薦で『音楽世界』誌の付録ページに登場。作曲家デビューを果たされます。
やがて橋本氏に不満をもつようになり、作曲家菅原明朗氏の門下に入り、深井史郎氏や服部正氏、近藤柏次郎氏と交流。阪隆氏名義による論文「本邦作曲界、及びそれに附随せるミュージック・ジャーナリズムに就いての小論」が『音楽世界』懸賞論文の2等(1等なし)に入選し、『音楽世界』1932年1月号に掲載されました。
1930年から1932年まで、洋画家の三岸好太郎と不倫の関係となり1932年、まだ三岸と交際していた時に人形劇団プークの高山貞章と知り合い、同年10月に結婚されます。
1932年からプロレタリア音楽同盟に参加され。1933年8月、反戦運動のための募金活動に参加し、夫高山氏とともに警視庁築地署に逮捕されます。
1934年、プロレタリア音楽同盟東京支部長代理となるが、同年、プロレタリア音楽同盟そのものが解散となりました。
1935年、高山氏と別居。1936年氏に離婚。同年から20年間にわたり、既婚の築地小劇場の演出家久保栄氏と不倫の関係となりました。
1935年、25歳の時、楽団創生をみずから設立されます。当時の新しい作曲家たちの音楽、バルトークやショスタコーヴィチ、ムソルグスキー、ドワイヤン、ダヴィデンコ、ジャヌカン、さらに自分の作品を演奏させる楽団になりました。
1940年、30歳の時治安維持法違反容疑で4度目の逮捕、慢性腹膜炎により5ヶ月後に保釈。楽団創生は活動停止に至ります。
戦時中は反戦主義者にもかかわらず、大政翼賛的な日本音楽文化協会の作曲部に正会員として参加しておられたそうです。
戦後に音楽活動を再開するが、1950年にNHK出演者レッドパージ対象者とされる。
1955年、内臓疾患で入退院を繰り返す。翌年1956年3月14日、癌性腹膜炎で死去されます。46歳でした。
生涯に23曲の作品が残されています。
とくに有名な曲は彼女の集大成ともいえる『ヴァイオリンソナタ ニ調』だそうです。
このソナタは、伝統的な3つの楽章からなる作品で、夫との共作であった演劇『火山灰地』の付帯音楽が引用され、第1楽章や終楽章では彼女の熱い情熱の吐露が随所に聴き取れるそうです。また、「レント・ドロローゾ(ゆっくりと苦しげに)」と指示された第2楽章の中間部や、終楽章の後半に登場する日本風の叙情的なメロディーが印象的な作品となっています。
舞台音楽
人形劇音楽『裸の王様』(1930年)
人形劇音楽『勇敢なる兵士シュベイクの冒険』(1931年)
人形劇音楽『お月様のお話』(1931年)
人形劇音楽『ドン・キホーテ』(1933年)
舞踊音楽『春妖夢』(白井鐵造 台本、1935年)
劇音楽『ファウスト』(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、久保栄 訳、1935-1936年)
劇音楽『群盗』(フリードリヒ・フォン・シラー、久保栄 訳、1936年)
劇音楽『火山灰地』(久保栄、1938年)
劇音楽『林檎園日記』(久保栄、1947年)
歌曲
ポンチポンチの皿廻し(中村正常、1931年)
鍬(一田アキ、1932年)
2つの悲しい小唄(堀口大学、1932年)
月夜
アルルカンの悲しみ ― カーナバル
雪 ― 子守唄風に(三好達治、1932年)
田をうないつつ(北山雅子、1932年)
2つの短歌による組曲(石川啄木、1933年)
死んだ娘のうた(森山啓、1934年)
貝殻墓地(後藤郁子、1935年)
蚤の歌(ゲーテ、久保栄 訳、1935年)
メフィストフェレスの小夜曲(ゲーテ、久保栄 訳、1935年)
ヘクトールの別れの歌(シラー、久保栄 訳、1936年)
生活(小倉雪江、1936年)
組曲『道』(1946年)
樹(中村敏江)
鍬(中野鈴子)
頬(竹内てるよ)
手(小倉雪江)
君死にたもうことなかれ(与謝野晶子、1949年)
晶子祭(日本女詩人会、1949年)
お百度詣(大塚楠緒子、1953年)
オペラ『君死にたもうことなかれ』より「わが恋は」(与謝野晶子、1954年)
合唱曲
兵士を送る(村田達夫、1932年)
小林多喜二追悼の歌(佐野嶽夫、1933年)
年老いし彼は商人(石川啄木、1936年)
底流(吉田隆子 編詩、1938年)
ばらーど
六歩の中
鉄はこうして
晶子祭(日本女詩人会、1949年)
お百度詣(大塚楠緒子、1953年)
器楽曲
ピアノのための『カノーネ』(1931年)
弦楽四重奏曲『ソナチネ』(1932年)
2挺のヴァイオリンのための『青年の歌』(1933年)
弦楽合奏とティンパニーのための『無題』(1935年)
ピアノのための『バラード』(1937年)
組曲『北国の季節から』(1947年)
ヴァイオリンソナタ ニ調(1952年)
ヴァイオリンのための『お百度詣』(1953年)
著書
『音楽の探求』真善美社、1948年; 改訂版、理論社、1956年。
吉田隆子にピアノを学んだという音楽評論家の小宮多美江氏は、「(彼女の願いは)日本人が本当に感動できる音楽をつくりたかった。それに尽きると思う」とおっしゃっていますが、短歌に音楽をつけたり、日本人の詩に音楽をつけておられる活動から見るとそれは確かに明らかです。
めぐめぐが不思議に思うのは、いくつかのドイツの作品に音楽をつけているのですが、特にフランス語につけていないので、単にフランス語はピアノの先生のためだったのかなと思います。
吉田隆子さんは
日本人作曲家の先駆者の一人として、激動の時代の中で自らの役割を自覚し、当時の音楽界の現状を憂いつつ、ひたすら努力を重ねた音楽家。
として音楽界では知られています。
また以下の吉田隆子の言葉が知られています。
日本の音楽は、世界的に見ても立ち遅れている。(中略)
今こそ世界の音楽史から、この立ち遅れを取り戻さなければならない。
めぐめぐが思う吉田隆子さんの素晴らしいところ
110代から作曲し、精力的に曲を作られたこと。先生と合わなければ変えるという勇気もすごいと思います。
2愛に生きてそれを音楽に残していること。パッションを紙に残すという才能は多くの人にあるものではないと思います。それを人生をかけてなさったのがすごいと思います。
3日本の音楽を西洋音楽レベルに上げるために、西洋の音楽も日本の音楽どちらにも関わって広めようとしたこと。20世紀の当時の最新鋭の音楽を日本で演奏する楽団を作られたというのはすごいことだと思います。
短い人生を愛と芸術に生きた吉田隆子さんはまさに芸術家の中の芸術家だと思います。