見出し画像

善と悪の複雑性について

「善と悪」「美と醜」を定義するのは、これらが主観的かつ文化的な要素を含むものであるだけにとても難しい。

人々の道徳に関わってくる領域でもあるので、彼らを支配したりコントロールしたい人たちによって、それらの定義がうまく開発や利用されることもしばしば。

多くの場面において、純粋で善良なものの代表とされることが多い動物だって少し考えるとなかなか怪しい存在だ。

無邪気でとてもかわいいかと思ったら、パートナーを得るために血みどろの闘いをするし、自分が生きるために平気で殺しをしたり、さらには兄弟を間引いたりもする。

動物たちは自らの本能に極めて忠実な存在だ。
我々が動物を語る時には、こうした醜い側面を無視しがちな傾向がある。

(そう考えると、世間では疎まれがちな自分勝手で抑制が効かず欲望に奔放な人たち。彼らもただ自らの本能に忠実で動物的なだけであり、純粋といえば純粋だ。これらを蔑みながら、どこかで羨ましいと感じる人もいるかもしれない)

善と悪は同じものの中に宿ることも少なくないようだ。

逆に人間社会を見てみても、表では人当たりがとても良く高感度抜群で聖人君子のような人が、裏では極めて汚らしい行いをしているということはよくある。(こうした観念があるからこそ、独特の背徳感による気持ちよさを生むのかもしれないが)

ここでも自ずと裏の顔は無視されている。明るみに出るまでは考えようともしない。

人間社会のことにおいては、やはりそこでの常識や道徳といったものが善悪の定義に大きく影響してくるのは間違いない。

やはり「善と悪」「美と醜」は表裏一体の関係でありつつ、同じものの中に宿るのかもしれない。

(機嫌が良い時と悪い時や、朝か夜かの時間帯で同じ人の性格が変わったりもするのとも似ている)

また同じ行為をするにしても、ある文化圏では良しとされ、また別の文化圏では極悪とされることもあるだろう。

立場や境遇が変われば、これらの意味合いが反転してくるのはよくある。善を目指したからこそ、逆に悪に落ちてしまうということもあるだろう。

さらには善を讃えるために悪が作り出されることもある。善が存在しなければ、悪も存在しないのかもしれない。

そう考えると「善と悪」とは一体何なのか。

こうした人間倫理に関わる領域はAIには処理が難しい所でもあるので、これからの時代においてそれぞれが考えておく価値は大いにあるだろう。

そしてこうした議論は、人が生きていく上で永遠に続いていくに違いない。

神と悪魔が戦っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ

「カラマーゾフの兄弟」

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集