#13 読書で世界一周 |コロナ禍のオランダを静かに勇気づけた小説 〜オランダ編〜
「読書で世界一周」は、様々な国の文学作品を読み繋いでいくことで、世界一周を成し遂げようという試みです。
前回はドイツを訪れ、巨匠ヘルマン・ヘッセの『デミアン』を読みました。今回は、西に進路を取ってオランダを訪れます。
おそらくこれが、私にとって人生初のオランダ文学。選んだのは、サンダー・コラールト『ある犬の飼い主の一日』という小説です。
サンダー・コラールト|ある犬の飼い主の一日
著者のサンダー・コラールトさんは、オランダ・アムステルフェーン市出身の小説家。現在はスウェーデンのストックホルム近郊で執筆活動をされています。
2019年に発表した『ある犬の飼い主の一日』により、オランダの権威ある文学賞であるリブリス文学賞を受賞しました。
本作が出版された当時は、新型コロナウイルスが世界的に猛威をふるい、人々の生活の土台を根底から揺るがしていました。
そんな渦中にベストセラーとなった本作は、生きる喜びや人生の価値を優しい筆致で人々に伝え、コロナ禍のオランダを励まし、勇気づけました。
描かれているのは、冴えない中年男性の主人公・ヘンクと、その相棒の老犬・スフルクの、とある土曜日の一日。
本作が面白いのは、170ページほどの長編小説でありながら、ヘンクが過ごす土曜日の、朝起きてから夜眠るまでのたった一日を、じっくり丁寧に描いているところです。
この小説では全編を通して、一日しか時間が進みません。
少しゆっくりすぎるように感じるかもしれませんが、その分ヘンクの心の動きがひとつずつつぶさに描かれており、そこが本作の味わい深いポイントです。
このように、ヘンクの頭の中でそのとき巻き起こっていること、思考の流れや感情の動きが仔細に描かれている点が、本作の特徴です。
例えば、「バスの車窓から川べりで遊ぶ子供たちを見る」という日常の何気ない一瞬ひとつを取っても、本作ではその瞬間のヘンクの思考を、じっくり何行にもわたって追っていくのです。
これはまさに、私たち人間の心の動きそのものです。
このように、時間の進み方が他の文学作品よりも私たちの現実感覚に近いこために、読者は本作を「自分自身の物語」として読んでいくことになります。
さて、本作の魅力はなんといっても老犬のスフルク。
スフルクはコーイケルホンディエというオランダ産の犬種で、長い間ヘンクに連れ添ってきた相棒です。本作の表紙イラストにも描かれています。
(余談ですが、大谷翔平選手の愛犬がコーイケルホンディエで話題になっていましたね。お上品な毛並みが可愛いわんちゃんです)
昔はやんちゃでいたずら好きだったスフルクですが(「スフルク」というのも「いたずら好き」という意味の愛称)、実は本作では歳を重ねたことにより、心不全を患ってしまいます。
体調を崩して元気のないスフルクに、ヘンクは心を痛めます。スフルクと共に過ごしてきた十数年の思い出が、彼の頭に蘇ってきます。
特に離婚したリディアとの思い出はひときわ強く、深い哀愁をもたらします。
ヘンクはリディアに電話でスフルクの病状を伝えます。一度は心が離れたふたりでしたが、愛犬のことを想い、共に心を痛めるのです。
わんちゃんには、人と人の心を繋ぐ、不思議な力があります。
スフルクが、離婚したヘンクとリディアを結びつける唯一の媒介になってくれていたのです。そしてそのことが、ヘンクとリディアにとっては、ひとつの救いでもありました。
コロナ禍を経験して、遠く離れた人のことを想い、気遣い慈しみ合うことが増えたように思います。
「元気にやってる?」「今なにしてる?」そんな何気ない挨拶が、ほんの少し離れていた距離を、また縮めてくれる。
本作を読んでいると、互いを気遣い合うことの尊さに改めて気付かされます。
そしてスフルクは、ヘンクにもうひとつの新しい繋がりを連れてきてくれます。それがミアという素敵な女性との出会いです。
ヘンクはミアと出会って恋に落ち、忘れかけていたみずみずしくて甘酸っぱい感情、抑えがたい胸の高鳴り、人生の歯車が再び回り出す幸福を感じます。
私が本作で最も好きな場面が、ヘンクが仲良しの姪・ローザに、ミアに対する恋愛感情を正直に打ち明けるシーンです。
ほぼふたりの会話文だけで描かれるこのシーン、一見すると、ティーンエイジャーの初々しい恋バナのよう。
ヘンクは新たな恋に落ちたことで、知らず知らずのうちに、若々しさと活力を取り戻していくのです。
たった一日のうちに、偶然の出会いから新しい恋愛が始まり、生きる喜びを見出す。
そんなのフィクションの世界だけだと思う人もいるかもしれないけれど、そんなことが起こる可能性を、常に秘めているのが私たちの人生です。
コロナという強敵を前になす術もなく日常を破壊され、私たちの心は、どうしても内向きに閉じこもり、突然もたらされた不便や不幸を恨むことも多かったと思います。
でも、もう少し外の世界に目を凝らし、手を伸ばして触れてみれば、そこにはきっと幸福の種が植っている。
ヘンクがミアに出会い、スフルクの病という避けがたい不幸を、共に乗り越えることができたように。
本作が優しく教えてくれるそんなメッセージが、コロナ禍において多くの人の心を慰めてくれたに違いありません。
本作はオランダのアムステルダム近郊が舞台になっており、その風景描写も素晴らしいと感じました。
自宅にいながら異国の雰囲気を感じられるのが、「読書で世界一周」で海外文学を読むことの楽しみのひとつ。今回も、オランダの街歩きを堪能することができました。
「読書で世界一周」、13カ国目のオランダを踏破。次の国へ向かいます。
14カ国目は、ベルギーへと歩みを進めます。果たして、どんな作品に出会えるのでしょうか。
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