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教育学における「規範欠如」問題に関する一考察


要旨

本論考では、まず教育学における「規範欠如」について論じる。日本における近代公教育が始まった約150年の間に、教育に対する社会のまなざしは変化してきた。それに伴い、学校教育に求められるものも変化してきたのである。

明治初期は近代国家における「国民」の育成が喫緊の課題であり、戦前までは国家主義イデオロギーを扶植するための装置にあり、昭和の中頃までは学歴社会を高く上昇していくための場所だったのだろう。もちろん、これらは時代ごとに明確に区分できるものではない。しかし、学校教育への期待への「大まかな合意」なるものは作れただろうし、それがある間は教育における「規範欠如」に悩まされることもなかったはずだ。

しかし、80年代以降に興隆したポストモダン思想によりそれらは全て相対化されてしまったと言える。「絶対的な価値」や「大まかな合意」さえも相対化された中で、教育学の規範は路頭に迷ってしまった。
そんな「規範欠如」状態の教育学には、保守政治家による思想教育や、経済人による経済合理性を求めた教育政策など、多種多様な「規範」が流入してくることを防ぐことができなかった。結果として残ったのは「疲弊する現場」だけである。

そんな中で、児童の問題行動に対する解決策として注目されている「ポジティブ行動支援(以下、PBS)」という教育実践がある。これは、PBSの研究者である庭山によれば、米国で「27000校以上で導入」されているエビデンスのある教育実践である。この実践の内実を検討する中で、まさに教育学が抱える「規範欠如」の問題点が浮き彫りになることを期待する。それは、最終的に「授業を円滑に進めたい」という教師の「子どもを管理したい」という欲望を満たすだけの教育実践になってしまうのではないだろうか。

科学的な言説は「規範」を導けないことは明確である。一方で、では科学的な言説は役に立たないのかといえば、もちろんそうではない。
最終章では、科学的な言説を「技術知」としてだけでなく「反省知」として活用する中で、教師の実践の質を高めていくという提案に繋げたいと思う。
エビデンスを心酔し、子どもの行動変容だけを「達成」と見るわけでなく、それらの知見を自身の実践を振り返るための「道具」として使いこなせる教師こそ、未来の社会を作る子どもたちを育成する立場としては相応しいのではないだろうか。


教育学における「規範欠如」について

現代の教育学は「規範欠如」に陥っているという指摘がある。
もちろん、教育基本法には「教育の目的」の記述はあるし、その目的達成のための下位目的も多数ある。学校現場における教室を覗いてみれば、そこには「学級目標」や「生活目標」などの多数の規範を発見することができる。しかし、だから、どうだというのだろう。

教育社会学者の広田照幸はこれを冷笑的に以下のように記述する。

今の学校は問題が山積している。それらを一つひとつ解決していくことが、教師だけでなく、教育学にも求められている。技術的なレベルでの改善や工夫は、いろいろできるだろうし、これまでと同様に、今後もなされていくだろう。教育学は、制度や組織・経営のあり方、カリキュラムや指導法のあり方を提案して、それらの教育問題の軽減や解決に役立っていくかもしれない。
 ーでも、それでどうだというのだろうか。今の学校に問題があるとして、その問題を解決するのが教育学の使命だという見方は、ある狭い円環を回っているだけのようにも思われる。教育学は、教育というシステムを詳細にデザインし、それを正当化してきた。そのシステムの抱える病理を、その知が自らの内部で解決する、ということにすぎないのではないか。自分が出した毒を自分で中和する、というふうなものだ。だがしかし、教育学はそれでよいのか。

『教育学』 広田照幸著 岩波書店 p105

「自分で出した毒を自分で中和する」という比喩からもわかるように、教育学は教育学の中で完結している現状がある。しかし、教育学が創造すべき「規範」とは、教育学の中だけで生み出せるのだろうか。

現状は生み出せているとは言えない。それは「教育のシニシズム」とも、「教育思想のポストモダン」とも表現される。前者について、広田は田代や小玉の議論を整理しながら、以下のように説明している。

田代尚弘や小玉重夫は、「教育のシニシズム」という言葉で、教育が手段・方法至上主義に陥っている現状を批判している。教育目的や理念をそっちのけにして、ひたすら手段・方法の効率や有効性のみが追求されるような事態である。田代は、明治以来の学歴取得競争を、「手段としての教育」の効用追求に特化した状態ととらえている。小玉は、子どもとうまく関係がとれるかどうかが教育実践の良し悪しを判断する基準になってしまっている事態を問題視している。要は、「教育の目的」とは切り離されたところで、目先の現実的効用の追求や達成のみが、教師たちの目標になってしまう、ということである。

 同書 p108

「教育の目的」という抽象度の高い目的は、最早、現場では目標にされておらず、「目先の現実的効用の追求や達成のみ」が意識されている。
これには現場にいる者としても同意せざるを得ない。それは子どもたちの「100マス計算のタイムの向上」に夢中になる教師や、「自主学習ノートの量」を自身の実践の成果として誇る教師たちの言動などからも垣間見られるだろう。

後者の、「教育思想のポストモダン」について下司晶は、「もはや「近代」を準拠枠にできなくなった教育思想のあり方」と表現している。
ここで述べられる「近代」というのは、例えば、近代教授学の祖であるコメニウスの、人を「神の似姿」にするために「すべての人にすべてを教える」という考えであり、人類の進歩を信じた者たちの、粗野で無知な人たちを「啓蒙する」という使命であり、近代国民国家における「国民」の形成のことであり、学歴社会における階級上昇を目指した「学歴の梯子」のことである。
これらの「近代」が準拠枠としてもはや機能しなくなった「教育思想のポストモダン」時代における教育学は、「規範の欠如」という問題を抱えることになった。

ポストモダン思想の功罪

80年代から90年代にかけて興隆したポストモダン思想は、教育学のその脆弱な足場を完全に壊してしまったと言える。「近代の後」という意味の「ポストモダン」について千葉雅也は以下のように説明する(なお。千葉は「ポストモダン」という言葉が否定的に使用されることを、その本質を見誤った不当な意見だとも述べている)。

その後、世界経済が、つまり資本主義が発展していくなかで、価値観が多様化し、共通の理想が失われたのではないか、というのがポストモダンの段階です。このことを、「大きな物語」が失われた、と表現します。
(中略)
ポストモダンの状態を良しとするポストモダン思想、ポストモダニズムは、「目指すべき正しいものなんてない」、「すべては相対的だ」、という「相対主義」だとよく言われます。
(中略)
なぜ相対主義はダメなのか。何でもありになるからです。事実にもとづかない陰謀論や、人を抑圧し暴力を肯定するような主張にも余地を与えかねない。

『現代思想入門』 千葉雅也著 講談社現代新書 p21、22

前節の「近代」でも説明した通り、これまでの時代だったら、国民の多くに「大まかな合意」として語られてきた「物語」があった。例えば、「学校で勉強して、より良い学校に入学して、一流企業に就職する」という物語は、現代ではその力は随分と弱まっているかもしれないが、今でも信じている人がいる物語の一つだろう。
それらがすべて「相対化」されてしまったのが、ポストモダンの時代である。

もちろん、これは悪いことばかりではない。
それは例えば、フェミニズムの運動により、それまで「当たり前」に抑圧されてきた女性と、それを「当たり前」にしてきた「家父長制度」の問題点が浮き彫りになったように、マイノリティへの視点という新しい価値に光を当てた面では重要である。

2000年代に教育哲学の世界では「他者」概念の研究が盛んに行われ、教育的関係のもつ権威性や、その暴力性が暴露されることになった。「他者」とは「理解も共感も絶した相手」という意味である。これも価値の相対化という意味では、ポストモダン思想の流れと関係があるだろう。

例えば、丸山恭司は「他者」概念を援用しつつ教育的関係に潜む植民地政策的な暴力性を指摘している(丸山 2003)。丸山によれば、「子どもため」と正当化して「教育を行う大人たち」は、「無知で蒙昧なお前たちのため」と「侵略して植民地化する帝国主義国家」と相似関係にあると述べる。
このように指摘されてしまうと、教育関係者はぐうの音も出ないわけであるが、丸山はここから次のように述べて、教育をあきらめないように促す。

教える者が学習者の他者性を完全に克服できると考えることは欺瞞である。しかし、だからといって、他者を他者として放置しておくとすれば、もはやそれは教育ではなくなってしまおう。教育においてなされるのは、むしろ、一致の確認に甘んじることであろう

「教育において<他者>とは何か ヘーゲルとウィトゲンシュタインの対比から」 
丸山恭司著 2000

「一致の確認」という言葉に、暴力性を自覚した者の自制心を感じるのは私だけではないだろう。教育関係の持つ暴力性を引き受けた上で、それでもなお教育関係を築いていこうと呼びかけるのは、同じように他者論を扱った哲学者である高橋舞も述べている。

どのような過程を経ようと最終的に理解できる者と捉えられてしまう他者は、他者性を奪われる暴力を振るわれる。しかし最終的に理解できない他者として理解を停止される他者も、理解不足、無理解という「他者性」を忘却される暴力をふるわれるのである。

「他者と『出会う』地平ー理解の超越と理解の暴力性に関しての一考察」 高橋舞著 2003

学校現場には「児童理解」という言葉がある。これは次節で扱う「問題行動」とも関連しているのだが、つまりは「教師の思い通りにならない子どもの行動」を「問題行動」として考え、その問題行動を起こす児童を「理解」しようという考えから生まれた言葉である。
高橋の言明は、まさにこの「児童理解」に潜む暴力性を告発している。一方で、「理解を停止」することもまた教育関係においては許されることはない。それは「他者性」を忘却されるという暴力なのだ。
結論を少し先取りして言えば、高橋の議論は丸山の議論と同様に、教師側に「ジレンマ状態」を生み出すという意味では、本論考の結論部分における「葛藤」概念とも関連する。教育は複雑な営みなのである。

独善的になりやすい教育実践において、ポストモダン思想や「他者」概念というのは、教育学に新しい視点を持ち込んだ。しかし、同時に「規範の欠如」という「絶対的な足場の崩壊」という副作用ももたらした。これは、現場の教員の教育実践に大きな影響を与えることになる。次節ではそれを取り上げてみよう。


ポジティブ行動支援の批判的検討

ここではポジティブ行動支援(以下、PBS)という教育実践を扱う。まずは、PBSについてその定義を確認しておこう。PBSの実践家として数々の研究がある庭山和貴によれば、PBSとは「子ども達の問題行動を予防し、望ましい行動を伸ばす効果が実証されている枠組み」であるという。
これは「米国では、既に27000校以上の学校」に導入されており、その効果についても「ランダム化比較試験」で検証され、学校規模で問題行動などが減少することが報告されているという。

現代の学校現場において、児童生徒の問題行動というのは大きな課題の一つであることは明白である。そこで、このようなエビデンスのある科学的な教育実践が待望されているということであろう。

本論考では、上記の庭山による2020年の実践研究である「中学校における教師の言語賞賛の増加が生徒指導上の問題発生率に及ぼす効果 ー学校規模のポジティブ行動支援による問題行動予防ー」を中心にPBSを批判的に検討してみる。この実践研究を選考した理由は、本研究が「城戸奨励賞」を受賞しているということもあり、教育心理学の中でも優れた実践研究であると判断したためである。

まず、本研究の概略を説明しよう。
本研究は中学校を対象とした研究である。対象学年は2年生であり、「研究実施校の中でも問題行動(授業妨害、生徒間トラブル)が多く報告されており、学校側は様々な対策を取った者の、授業が成り立たない様子も観察されていた」という。
そこで、授業時間における生徒の「授業参加行動」に対して「教師の言語賞賛」を実施し、生徒の望ましい行動を伸ばしていくことで、相対的に問題行動を減少させることを目指した。さらに、その賞賛回数を教師自身も記録し、それを主幹教諭に報告することでフィードバックも行っていた。
実践の結果としては、生徒の「授業参加行動」は増加し、相対的に生徒指導上の問題発生率は減少したという。

さて、ここからはその実践内容を批判的に検討してみよう。
これまでの流れをおさらいすると、教育学の「規範の欠如」に伴う問題点が本実践から浮き彫りになるということであった。

本実践における「授業参加行動」とは何かというのを検討してみたい。
ここでいう授業参加行動というのは「発言・発表したり」「指示された活動・課題に取り組んだり」「前を向いて話を聞く」などの「行動の総称」である。
「行動の総称」という部分に他にも様々な行動が想定されるのではあろうが、少なくともそれまでに挙げられた具体的な3つの行動を見る限り、それらは「教師の指示を素直に聞いて行動できる子ども」にするという「規範」がある。

本実践の対象学年は先述の通り、問題行動が数多く授業が成り立たない学年であったということを鑑みれば、このような規範を求めたくなる教師たちの気持ちは痛いほどわかる。一方で、これはどこまでいっても「教師側の子どもたちの管理のしやすさ」を求めているとも言えてしまう。

PBS導入前の対象学年の生徒たちは、「授業中に複数の生徒が立ち歩いたり」「離れた席の生徒間で私語をしたり」「物を投げたり」といった様子が観察されていた。それに対して教師たちは、「授業中の教室抜け出し予防のため」の「廊下の巡回を強化」したり「別室指導を強化」したりしたが、問題行動は依然として多くみられていたらしい。
この状態だけを見れば、子どもたちの「問題行動」は学校側の「管理的な指導への反発」とも見えなくはない。そう考えるのならば、PBSを通して目指したい理想的な状態が結局「教師の指示を素直に聞く」などの「生徒の管理のしやすさ」であるならば、それは問題の原因としっかり向き合えていないのではないだろうか。

生徒たちの問題行動の根本原因が「教育関係における理不尽な権力の非対称性」に対してのものであったのならば、学校側が目指した理想的な状態は、それが解決した姿というよりは「手段を変えた」だけであり、結局は、「理不尽な権力の非対称性」は何も変化していないことになる。

PBSにおいて強調される言葉として「望ましい行動」というのがあるが、ここでいう「望ましさ」が以上のような教師側の「(生徒の)管理のしやすさ」であるならば、そこにある教育実践としての規範のレベルの低さについては言及しなければならないだろう。
当然であるが、学校教育の目的が達成された子どもたちが「教師の言うことを素直に聞いておけば、それでいい」と、そのまま表明する教師はいないであろう。しかし、本研究から透けて見えるのは、そのような教師の「本音」ではないだろうか。そこには生徒の主体性も独創性も認めない教師の傲慢さが見えてしまう。例え、それらを認めたとしても、それは「教師の想定範囲内」という前提がつくのであろう。しかし「教師の想定範囲内の主体性」とか「教師の想定範囲内の独自性」という言葉は虚しく響く。「生徒の主体性は、教師への忖度」ではないのか、という問いに向き合う勇気があるのだろうか。

教育は再帰的な営みである。
つまり、生徒の変化に対して、教師もそれを受けて変化するような、双方向的なやり取りのはずである。しかし、本実践から見えるのは、行動分析学の祖であるスキナーが発見した「刺激ー反応」という単純な公式による行動解釈である。研究という性格上、分析ができる程度に事象を単純化しないといけないことはわかる。しかし、生徒たちという人間を「刺激ー反応」のロジックに単純化してしまうことの危険性もまた認めないことには、問題の本質を見誤ることになるかもしれない。
それは、たとえば、教室における教師の権力性に気づかないまま、子どもたちを科学的手法で上手に管理し続けて、教師に対して従順なだけの子どもたちの育成を望んでしまう教師を産んでしまうかもしれない。それは、教育のあるべき規範としては危険なものであろう。

技術知と反省知を葛藤させる

さて本節では、科学的な根拠のある教育実践との向き合い方を提案したいと思う。前節での議論だけでは、まるで科学的な根拠の全てが規範の欠如した悪と捉えられかねない。もちろん、それは早計である。
ドイツの教育学者ブレツィンカは、教育学の知を分類する2つの概念を用意した。科学的な根拠のある教育実践を「教育科学」とし、規範などの価値判断を伴い、より良い教育を実施するための知を「実践的教育学」と分類したのだ

PBSは「教育科学」に分類される。そして、本論考で扱いたい「規範」は「実践的教育学」である。
もう少し詳しく説明すると、実践的教育学は「教育者のための方向づけの援助」であり「行為へと導く教育の規範的理論」である。例えば、「体罰を行えば、行為の抑制を大いに期待できる」とする。そして、それを科学的に実証できたとする(おそらくできるだろう)。しかし、だからと言って「学校教育で問題行動抑制のための体罰を行おう」とはならない。「それはダメだろう」と感じたのは、あなたの中に「規範」があるからである(もちろん法律的にもアウトなのだが)。
当然であるが、「〜である」という情報から、すなわち「〜すべし」という当為は導けないのである。教育科学は実証研究から蓋然性のある「〜である」は引き出せても、それをそのまま教育実践に適用できないということなのだ。

一方で、実践的教育学の足場は不安定である。それは、教育の目的を考えてみればすぐにわかるように、保守政治家は「美しい日本を担う国民の育成」を目指すだろうし、経済人は「グローバル人材の育成」を目指すだろうし、保護者の多くは「偏差値の高い学校へ入学できる子ども」を目指すというだろう。ポストモダンを経た現在の多様性社会の中で、全員が納得する「教育の目的」を創造することが困難である話はすでにしたとおりである。
だから、実践的教育学と教育科学は、相対するものではなくて、相補的なものでなくてはならない。

そこで、ここで教育学の知を分類するやり方を導入したい。広田照幸はそれを「技術知」と「反省知」と呼ぶ。

技術知とは、「手段の合理性の追求に特化した知」である。効率や効用や有効性を高めようとする知である。これはPBSにおける「言語賞賛を増やせば、相対的に問題行動は減る」という、「ランダム化比較試験」などで検証された高いエビデンスを持つ知である。

反省知とは、「既存の現実や現実認識を相対化する知」である。つまり、自分の中の「当たり前」を疑わせる知だ。これもPBSを例にとれば、「問題行動に対しては、叱責をする」ことが「当たり前」だと思っていた教師が、PBSの知見に触れることで、自身の認識を改め省みる機会になることである。

技術知だけでは、それを鵜呑みにして規範が欠如してしまう。だからこそ、教師は常に反省知も同時に求めることで、迷い葛藤することができる。ここでの葛藤は決して悪いものではない。

思想家の内田樹は「成熟は葛藤を通して果たされる」という命題を以下のように説明する。

教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない。言うことが矛盾しているのだが、どちらの言い分も半分本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としてはいちばん良い感化をもたらす。そういうものです。
きれいに理屈が通っている、すっきりしている先生じゃダメなんです。それでは子どもは育たない。成熟は葛藤を通じて果たされるからです。

『街場の教育論』 内田樹著 ミシマ社 p113、114

上記は子どもの成熟のための話ですが、これはそのまま教師の成熟にも当てはめることができるだろう。つまり、教師もすっきりしていてはいけないのだ。教育という困難な関係を子どもと取り結ぶ以上、そこには常に戸惑いや迷いを抱えていなければいけない。絶対的な法則を手にして、子どもたちを管理することに愉悦を見出してはいけないのだ。

「これでいいのだろうか」という葛藤を抱えながらも、それでも決断していかないといけない。これについては、千葉雅也も以下のように述べている。

逆に言うと、人が何らかの決断をせざるをえないということは「赦す」しかないのです。決断の許諾とそれが排除しているものへの批判は、仕事をし、社会を動かしていかざるえをえないと言う現実性においてバランスを考えるしかない。
人は決断せざるをえません。先のツイートのケースでは、「大人は責任を持って決断するのだ」ということがある種の強さのように言われていました。それを言うなら、未練込みの決断と言う倫理性を帯びた決断ができる者こそが本当の「大人」だということになるでしょう。

『現代思想入門』 千葉雅也著 講談社現代新書 p54

学校教育の目的が、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成であるならば、その形成者は「葛藤を通じて成熟した大人」たちであることは疑いようもなく、それを育成する教師もまたそのような資質を備えていることが必要なのだろう。

おわりに

教育というのは難しい。
ポストモダンを経て、「よい教育とは何か」という「教育の規範」について軽々と語れる雰囲気はなくなった。どの言説も、さまざまな価値観によって相対化され尽くしてしまって、それに疲れた人たちは「みんな違って、みんないい」と考えることを諦めてしまったようである。
しかし、その教育学の「空隙」をついて、教育を利用してきているのが、保守政治家であり、経済人である。彼らに主導権を握られてしまった教育行政は混迷を極め、そのツケは「現場の疲弊」として表面化してきている。

「よい教育とは何か」は語れないのだろうか。いや、そうではないはずだ。現場の教師の多くは教育的熱意を失ってはいない。少なくとも私が出会ってきた教員のほとんどは「子どもの成長」を強く願っている。そのベクトルは違っていても、根本の願いは同じである。では、足りないのは何か。それは「教育を語る言語」だと感じる。

「他者」という概念を知ることで、児童理解という言葉の傲慢さに気づける。
「ヤングケアラー」という実態を知ることで、家庭環境を考慮することの大切さに気づける。
教育には課題は山積しているが、現場が教育への熱意を失っていない間はまだまだ大丈夫であると楽観視している。しかし、それもいつまでであろうか・・・。

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