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「学力向上」に焦点化された学校教育で誰が得をするのか

学校教育は何を達成するための場所なのだろう。
こんな問いが私の頭には常に浮かんでいる。これは、最近の教育行政への違和感なのか。それとも、戦後復興から経済成長を経て「失われた◯十年」まで、実はずっと学校教育を支配してきた価値観だったのか。

「学校とは勉強をするところです」
小学生に聞いてみれば、ほとんどの子どもはこう答えるであろう。そして、これは子ども自身が考えた言説ではなく、その周囲にいる大人から「学校とは勉強をするところである」という価値観を植え付けられてきたからであろうことも想像に難くない。

子どもとは可塑性のある生き物である。
キリスト教徒にもイスラム教徒にも仏教徒にもなれるし、資本主義者にも社会主義者にもなれる。このことに少しでも自覚的である大人であれば、子どもと接することに対してもう少し慎重になれるはずであろうが、どうにもこのことを忘れてしまっている大人が多いと感じる。それは私が「子どもたちを教育する場」で勤めているからなのだろうか。

教室には権力が異なる二種類の人間がいる。
一人が権力者の「教師」。そしてもう一人が非権力者の「子ども」。
この教室における「権力の非対称性」こそが学校教育の本質である。
だから、これが逆転することは絶対にない。
例えば、子どもたちが自宅で調べてきたことを、教室で教師のように授業をするという「反転学習」のような授業形態がある。他にも、学習課題に対して、子どもたち同士の関わりや教え合いの中で課題解決を目指していくような『学び合い』という教育実践もある。
これらは一見「子どもたちだけで」授業や学習が成立しているように見えるが、「そのようにしよう」と提案したのは教師であり、結局は「教師がさせたいこと」を「子どもたちにさせている」という点では、現代の学校教育では否定されがちである「講義形式の一斉授業」と構造は全く同じである。
これは何も悪いことではない。教育というのは「そういうものだ」という話なのである。

しかし、学校の教師たちはこのことを素直に認めたがらない。
つまり、福沢諭吉の「学問のすすめ」の教えを健気に守ろうとしている。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」である。
私自身も過去に指導役から指導されたことがあるが、「子どもの話を聞くときは、教師は膝をついて目線を揃えましょう」などはその典型である。

今にして思えば、教室における「権力の非対称性」は消せないのだから、教師が目線をあえて下げることに何の意味があるのだろうかと考えてしまう。別に目線の位置と話しやすさに、そこまでの相関関係はないはずであり、むしろ、そうした「瑣末な出来事」よりも「日頃の信頼関係」の方が「子どもの話しやすさ」には影響すると考えて、私自身は膝をつかなくなった。その代わり、真剣に子どもたちの話を受け止めるくらいのカウンセリングマインドくらいは意識しているが。

繰り返すが、教室における教師と子どもの「権力の非対称性」を消せないからこそ、教師はそのことを忘れてはいけない。子どもの話を聞くときに膝をついたくらいで、これが帳消しになるなんて思ってはいけないのだ。


そんな学校教育における権力者である教師たちの思考が「ある方向に限定させられていたら」どうなるであろうか。今回のテーマはそこである。

教育というのは人間の思想形成に多大なる影響を与える。
これは戦前の国家主義教育を思い出してもらえればいい。国家が一丸となって、一つの方向に向かった結果、国は悲惨な結果を迎えた。その時に、国民の思想形成を担ったのが「教育勅語」と「御真影(天皇皇后の写真)」である。詳しくは以下に引用する小野雅章氏の著書に譲るとして、現代にも見られる「教育勅語一部容認論」について、小野は以下のように記している。

一九五〇年代以降二〇〇〇年代に至るまで、教育勅語について、君主が「臣民」に下すという形式は問題だが、内容そのものは評価すべきものであるという教育勅語有効論が、歴代総理大臣・文部大臣を含めた保守政治家から繰り返されている。(中略)教育勅語に関する本格的な実証研究が明らかにしたように、教育勅語に示されている徳目は、そのすべてが国家に万一のことがある場合は、一身を投げ出し、「天壌無窮の皇運(永遠に続く天皇・皇室の運命)」を助けるためのものであるという、国体論に立脚したものである。しかも、教育勅語は全体としてひとつのものであり、それを部分的に解釈することは不可能であることもすでに明らかにされている。

『教育勅語と御真影』 小野雅章著 講談社現代新書 2023 p261、262

「教育勅語一部容認論」は、現在でも根強いことはSNS上でも見て取れる。教育勅語によって思想形成させられた多くの若者が命を落としていったという歴史的事実を踏まえれば、「しかし、その中にも良いものある!」と声だかに叫ぶ気持ちにはなれないはずであるが、どうも「右側の人たち」はそこを切り離せるみたいである。

どうして、いきなり教育勅語の話をしたのかといえば、これが現在の政権与党における保守派の思想的な根源であり、その政権与党が教育行政に強いている「ある方向」というのが「学力向上」であり、そこに関係性を見いだせるのではないかということである。

このような論調で政治とか思想を語り出すと「教育者がそんなことを語るな」とか「そんな教師に教えられた、子どもたちが可哀想」などとお叱りを受けるが、むしろ「そんな難しいことはわかりません」と無知な教員が子どもたちの前に立つ方が恐ろしいし、さらに、子どもたちの前でこんなトーンで政治や思想の話はしないことは、あえて言う必要はないか笑

現在の学校教育は「学力向上」という狭い枠組みでの思考を強制されていると警鐘を鳴らすのは、高知県土佐町議員で教育研究者でもあり『崩壊するアメリカの公教育』の著書としても有名な鈴木大裕氏である。
氏の以下の文章に戦慄を覚える教師は多いのではないだろうか。

現代言語学の権威であるマサチューセッツ工科大学名誉教授のノーム・チョムスキーは、「民衆を受け身で従順にする賢い方法は、議論の範囲を厳しく制限し、そのなかで活気ある議論を奨励すること」と鋭く指摘する。「学力向上」というのはまさに国家権力が提示する議論の枠組みそのものなのではないだろうか。本来であれば、何を子どもたちに教えるのか、どんな「学力」を育むのか、教育を通してどんな社会を目指していくのか、そこをまず徹底的に議論するのが民主主義社会の教育だろう。しかし私たちは、政府が提示する「学力向上」という枠組みを従順に受け入れ、実に活発に議論し、知らぬ間に子どもたちをこの新自由主義的な社会に適応させてしまっているのだ。

「自由」の危機」ー息苦しさの正体 集英社新書 藤原辰史 内田樹他著 2021 p346

確かに、近年の学校教育は「学力向上」というテーマに対して過敏に反応してきた。それは、OECDが実施している「PISA」の結果を受けた「PISAショック」以降、特に顕著であろう。

「全国学力調査」は第一次安倍内閣が43年ぶりに復活させた。約77億円をかけて「悉皆調査(全員を対象)」をしたわけだが、民主党政権時代に「抽出調査」に戻された。しかし、その後、第二次安倍内閣の時に再び「悉皆調査」に戻されたのである。
言葉遊びに感じられるかもしれないが、「全国学力調査(正式名称は「全国学力・学習状況調査」)」は「調査」である。しかし、これは「全国学力テスト」と呼ばれることが多い。当たり前だが「調査」と「テスト」は大きく異なる。

「調査」は研究などに用いられるものだから、「悉皆」で行う必要はない。「大まかな傾向」が分かれば調査としては十分だからだ。統計学には詳しくないが、テレビの世論調査が「悉皆」ではないことを考えれば、「一定数」を持って大多数の傾向を知ることは理論的も可能なのである(まあ、テレビの世論調査にはかなりの偏りがあるとは思う。平日の昼間にインタビューに答えられる層は限定的である)。

一方、「テスト」となれば話は別である。テストは子どもにとってお馴染みの学習活動である。「あなたは受けなくてもいいよ」と言うわけにはいかない。「全員が受ける」ことが基本である。なぜならば、そうしないと「序列化」できないからである。
「同じテストを受けさせて、その点数を序列化する」
これがテストのイメージである。学習評価論の観点から言わせてもらえれば、これにはかなりの誤解が含んでいるが、まあ一般的なテストのイメージはこれに尽きるだろう。
実際、一部自治体では「全国学力調査」の学校平均値を学校ホームページに公開することを強制しているところもある。保護者は、それを見て我が子の進学先を決めると言うのだから、学校も必死である。

では、「教育勅語を教育理念の中心に据えていた森友学園」の「副理事長であった妻」を持っていた故安倍首相の内閣が執拗に進めた「悉皆式」の「全国学力調査」にはどんな意味があったのか。

それは、まさに先述の引用にもあったチョムスキーの言葉である。

「民衆を受け身で従順にする賢い方法は、議論の範囲を厳しく制限し、そのなかで活気ある議論を奨励すること」

教師は「学力向上だけ」を考えていたらよろしい。他のことは考えるな。教師は政治のことや思想のことなど考えるべきではない。カリキュラムに沿って、教科書の内容を粛々と教えていたらいいのだ。

実際、学校教育は本当に見事に教育行政に忠実に従っている。
道徳の教科化に伴って「道徳の授業においては、道徳の教科書の指導内容をはじめから終わりまできっちりと指導する」を忠実に守っているし、「主体性」という子どもの「内心の自由」に関わる部分を評価しろと言われれば、そこもきっちりと評価している。

道徳化における自主教材というのは、学校教育の文化の中で確かに一つの「核」であったと感じていたのに、これは上記の流れから、遅かれ早かれ衰退してしまうであろう。道徳のような内心に関わる領域を個人に任せるのは危ないと感じる保護者もいるが、私はむしろ、内心に関わる領域を国が一律に規定することに寒気を覚えてしまうのだが、この感覚は少数派のようである。

主体性への評価だって、始めの頃は、現場からも「違和感」の声が上がっていたはずなのに、最近では、どの活動でも「閻魔帳(教師のもつ成績を記述するノート)」を持ち歩き、子どもの活動を逐一記録する教師の姿が当たり前になりつつある。その姿はもはや「教育者」ではなく「査定者」であり、「授業」は「実技試験」のようだ。

ここまで話を転がせば、この記事の題名の問いも明確であろう。
それは「教育行政を動かせる者」である

学校教育が「学力向上だけ」に意識を向ければ向けるほど、「その他」の領域での「違和感」への感度は低下する。すると、気がつけば、「なんだかとんでもないことになっていた」ということもあり得るだろう。

不登校の子どもが全国で20万人と言われている。そして、その多くは「学力」に関することなのではないかと考える。実際、本校の「不登校児童」の傾向を調べると、その多くは「低学力」の児童であった。学校の先生が「学力向上だけ」を意識させられていれば、それを子どもたちも同じように内面化していく。そして、「学力がない私は学校に通う意味はない」と、学校教育に見切りをつけてしまう児童がいても何も不思議ではない。そういうことをしていたから、こうなった。シンプルな問題なのである。

この流れに対する防波堤になれるのは、まさに子どもの目の前にいる教師なのであろうが、どうにも教師は疲弊させられていてその力を「構造的に」奪われているのではないかと思うのだが、この話はまた別の機会に。

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