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叱ると怒る


怒鳴っていませんか?

 今回のテーマは「叱ると怒鳴る」についてです。僕はもうずいぶん職場で「怒鳴って」いませんが、まだまだ僕の職場でも「怒鳴る先生」は存在します。先日、一年生の前の廊下を通ったときにも担任の先生の大きな「叱り声」が廊下に響き渡っていました。

 学校という場は「怒鳴ることに寛容」だと感じます。「体罰をしてはいけない」ということは、もう多くの学校で認知されていることかと思いますが(それでも体罰案件は無くなりませんが)、「怒鳴ってはいけない」という声は現場からはなかなか上がりません。

教師の「懲戒権」は認められている

 もちろん先生たちは、子どもたちに対しての「懲戒」が認められています。だから怒鳴る先生たちは、それを「懲戒」の一つという認識でしているのだと思います。しかし、一歩引いてよくよく考えてみると、成人である大人が、か弱い子どもに対して「怒鳴りつける」というのはとても異常な事態では無いでしょうか。

※ちなみに、懲戒権の参考の中には「立ち歩きの多い児童を叱って席につかせる」というものもあります。詳しくは以下のリンク参照のこと

 僕は「怒鳴る」も十分に暴力性を帯びた「体罰」では無いだろうかと感じます。僕自身、自分の人生を振り返って、成人に怒鳴られた経験は何度もありますが、どれも心にとても大きな傷となって記憶されています。

 先程の一年生の事例で、僕はあえて「叱り声」と書きました。叱ると怒鳴るの境界線は非常に曖昧です。先生本人には「怒鳴る」と「叱る」の区別が付いているのかもしれませんが、子どもの側から言わせれば「怒鳴る」も「叱る」もとてもショッキングな体験であることは違いありません。

不登校のきっかけが「先生の怒鳴り声」

 僕が過去に支援してきた不登校児童の不登校になったキッカケの中にも「担任の先生が別の子どもに怒っている姿が怖かった」というものがいくつもありました。叱るや怒鳴るには、それほど強烈なエネルギーを帯びてしまうこともあるということを肝に銘じておかないといけません。

「教え諭す」者が教師である

 ただそれでも、我々教員には、子どもたちに生活指導などをしないといけない場面というのは存在します。「叱れない」し「怒鳴れない」なら放置する、というわけにもいきません。そこで、僕は「諭す」という言葉を、いつも自分に言い聞かせて、子どもたちの指導にあたっています。「叱る」には「怒鳴る」が含まれてしまいがちですが、「諭す」には「怒鳴る」の入る余地はありません。子どもに対して、あなたのしてしまったことの、何がいけなくて、それをするとどうなるのか。これを「諭す」ことは「教諭」である我々の仕事ではないでしょうか。

 先生が怒鳴ってしまうことで、子どもとの関係が崩壊してしまうことは容易にあり得ます。先生が本当に伝えたいことは、怒りの感情に乗せて伝えるよりも、先生の落ち着いたトーンで伝える方が子どもたちには伝わると思いませんか。

詳しくは拙著をご覧ください。