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緊急事態宣言で会いたくない人に会わなくてすむという心の平穏
コロナ禍の緊急事態宣言中に不謹慎であると思っている。
でも、私の心は、この緊急事態宣言中、安らいでいることは事実だ。
私は大学生時代から社会人にかけて、付き合う人を選んできた。
しかし、子どもができて、子どもが小学生になって、子どもとの関係者の方々とお付き合いしていくことが、今現在、非常に苦痛でたまらない。
子どもが保育園の時には、そんなことは感じなかったのだが…。
昨年、子どもが小学校に入学して、一年間、嫌なことが続いた。
入学してすぐ、同じ地域の親御さん達に、私の子どもは悪い子として決めつけられた。
それを鵜呑みにした小学校にも、決めつけられて嫌な思いをたくさんした。
私の子どもは、同じ地域の高学年の子達に暴力を受けていた。
暴力を受けていたことは、地域の親御さんや学校が隠していた。
地域の子ども達も黙っていた。
そんなことから、地域の親御さん達や子ども達、そして小学校に失望している。
そして、恐怖と怒りから、昨年の地域の子ども会の行事には参加できなかった。
この田舎町で、付き合う人や小学校を選べないという現実…。
先月に予定されていた小学校への奉仕作業は、緊急事態宣言のため延期になった。
ほっとした。
そして、今月にまた小学校への奉仕作業が予定されたが、緊急事態宣言が延長になったため、また奉仕作業は、延期か中止になるだろう。
奉仕作業が中止になることを祈っている。
小学校にお世話になっているという感謝の気持ちは、こちらにはない。
やむを得ず、この小学校へ子どもを行かせている。
私の子どものことを勝手に決めつけて小学校へ通報した地域の親御さんや校長先生、養護教諭、元担任と会いたくない。
自分の中で、いまだに消え去らない怒りを抑えて奉仕作業をすることは、かなりのストレスだ。
もう、忘れてしまいたいが、まだ忘れられない私は、異常なのだろうか?
私にとって、小学校は不信であり、大切な子どもをあんな学校に預けたくないと心の底で思っている。
子どもに関わる地域の親御さんや子ども達とも関わりたくないのが本音だ。
子どもが2年生になって、ある時、地域の子ども会の行事に参加したが、その時に今までの自分の怒りを抑えたストレスから、行事が終わった後に嘔吐をした。
緊急事態宣言は、「会いたくない人と会わなくてすむという心の平穏」を与えてくれる。
コロナ禍において、そして、緊急事態宣言下において、不謹慎かもしれないが、こんな思いを内に秘めているのは、私だけだろうか?