「チャレンジしよう」と言うことが、チャレンジャーを減らす理由。
こんにちは。達川幸弘です。
今はCAMPFIREという会社でマーケティングをしたり、ほそぼそと個人でも企業のマーケティングのお手伝いをしていたりします。
マーケティングと進化心理学をつなげるブログという実験的な試みをしております。
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みなさん、損するのは好きですか?僕は嫌いです。
日本の保守的な正解主義・横並び主義が、経済発展の阻害要因のやり玉に上げられるようになり「チャレンジをしよう」ということが声高に語られるようになって久しい昨今です。
企業でも「失敗を恐れずチャレンジしよう」ということが、MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)に含まれていたり、社会全体の不確実性が増す中で「チャレンジしないことがリスクである」と言われたりします。
もしかすると、多くの人がこういった「チャレンジ」することへの重要性を感じながら、「でも動けずにいる」というプレッシャーを、社会や組織から感じているかもしれません。
さらには、多くの成功者たちがSNSで「なぜやらないのか?」というプレッシャーをかけてくる現状において、「行動できないこと」「積極的にチャレンジできないこと」に劣等感を感じるかたもいるのではないでしょうか?
かく言う私の勤めるCAMPFIREでも、クラウドファンディングでチャレンジする人を応援するという性質があったり、VALUEの中に「どんどん失敗しよう」というものがあったりします。
では、「チャレンジしない人」は駄目なのでしょうか?
僕は実は、そうではないと考えています。むしろ「チャレンジしない人」こそが、我々が長年培ってきた生存戦略上の重要な要素を担っていると考えられます。
ここのブログでは人間にとって「チャレンジ」というものが何なのか?について、考えてみたいと思います。
人間は損をしたくない生き物(プロスペクト理論)
プロスペクト理論とは、1979年、後にノーベル経済学者となる、ダニエル・カーネマンと、エイモス・トベルスキーによって提唱された理論((Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk / Daniel Kahneman and Amos Tversky 1979))のことです。この理論自体はググると山のように記事が出てきますので、そちらを御覧ください。ここでは概略のみをお伝えいたします。
この理論は、人々が損失と利益を非対称的に評価するという観察に基づいています。
つまり、同じ量の損失は、同じ量の利益よりも大きな影響を与えるということです。これは「損失回避」と呼ばれ、我々の決定に大きな影響を与えます。
また、確率の評価においても人々はしばしば非合理的な行動を示します。これらの観察は、経済学、心理学、政策決定など、多くの分野に影響を与えています。
なぜ人は損失回避を過剰に評価するのか?
なぜ人には「何かを求める」よりも「損失を回避したい」という欲求が強く働くようプログラムされているのでしょうか?
進化の観点からこの謎を紐解いていきます。
技術的に問題解決する人の割合
「何かの製品を家で改造したり、ゼロから作ったりしたことがありますか?」
さて、あなたはこの問いにどう答えるでしょうか?おそらく多くの方は「NO」と答えたのではないでしょうか。
この問いに対して「3年以内にやったことがある」と答える「イノベーター気質」の人の割合は5%程度になるといわれており、地域差はあるものの、10%超えることはないようです。
多くの人はこのような「技術的問題解決」を行わず
・周りの人に頼んでみる
・いまある手元の手札から考えてみる
という思考をたどり、社会的に問題を解決しようとするのです。
チャレンジする人に待っている、死と淘汰
では、なぜ多くの人は「イノベーター気質」を持たないのでしょうか?なぜ「損失」の評価を課題に評価し、失敗を恐れるのでしょうか?
我々は200万年の人類史において、多くの期間を狩猟採集民として過ごしてきました。常に移動と定住を繰り返しながら、新たな食料を求めて生活していたのです。
例えば、ある場所に木の実がなっているとします。一度取り尽くしてしまっても1年立つとまた木の実ができているかもしれないので、またその場所に帰ってくるかもしれません。
その際に、落下したら死ぬかもしれない高さまで木の実を求めて登る人がいたとします。地上からは見えない高さのところに木の実があり、そこまでいけば果実を独占できるかもしれない。しかし、見えていない以上木の枝の向こう側には何もないかもしれません。
このようなハイリスクハイリターンな選択をした場合、当然「リスク」側が牙を向いた場合、その種はいなくなってしまいます。すなわち「死」がまっており、種の淘汰が行われるのです。
いわゆるファーストペンギンのような振る舞いを行った場合、得られるリターンよりリスクが大きく多くチャレンジスピリットを持った多くの種は、淘汰されていったと考えられます
あるときは、木の実を求めて、あるときは危険な猛獣の肉を求めて、あるときは荒波の中の魚を求めて、チャレンジを繰り返しながら、一部の生還者のリターンを享受し、我々の種は残ってきたのです。
まさに、一部のイノベーターがiPhoneなどイノベーティブな開発し、その便益を受け取って生きている我々のスタイルと重なります。このような組織や社会構造と、人間の性質は一朝一夕に出来上がったものではないのです。
ほどんどの人はチャレンジしない
このように、人生において「チャレンジの素晴らしい」という言説はあるものの、ほとんどの人がチャレンジへ踏み出せない理由がここにあります。
我々の多くは、何か新しいことを積極的にチャレンジするようにプログラムされていないのです。むしろ「保守的」で「今ある手札」でなんとかしようとするようにプログラムされています。
そうすることが、生存戦略として有利だったからです。
どうすればチャレンジャーを増やせるのか?
しかし、高齢者を対象にした調査では、多くの場合「やったこと」以上に「やらなかったこと」に対する後悔が上回ります。
例えばこの論文の研究では以下のような結果が出ています。
これの背景にあるのは、過去の記憶とを呼び起こした時に「あの時ああしていればよかった」という思考になっているからだと考えられます。
しかし、その時にとった行動がどうなるかを理解したうえで行動できていたならば、それは予知であり「チャレンジ」でもなんでもありません。
「20年前にビットコインを全財産買っていれば」
「NVDIAの株を思い切って買っていれば」
という考えになんの意味もないように、その時その行動ができなかったのはそこにあるリスクや、何らかの因子によってそれが「チャレンジング」であると解釈されたからであり、過去に戻ってその行動ができるかどうかは疑問ではないでしょうか。
恐らく行動が伴ったとしても、そういった気質の人がとる「チャレンジ」は本質的なイノベーター気質の人の起こす「チャレンジ」とは一線を画す性質になるはずです。
では、どうすればチャレンジャーは増やせるのでしょうか?
「手段」のチャレンジ化をなくす
おそらく組織や社会における課題に対して何かしらの目標を与え、イノベーター人間が「チャレンジ」を定義し、「それをやろう」といっても組織や社会は変わらないのは前述のとおりです。
多くの人はそのリスクを取れないのです。では、どうすればよいのでしょうか?
「イノベーターだけが集まる集団を作る」
「チャレンジをチャレンジではなくす」
ことしかありません。
前者のイノベーターだけが集まる集団を作ることは、かなり難易度が高く、人材の奪い合いになることは見えています。
では、もう一つの方法はどうでしょうか?
「チャレンジ」の背後にある「リスク」を存在させている以上、多くの人はそこへ飛び込むことはありません。
むしろ組織・集団の運営者は如何に「チャレンジがチャレンジでなくなる環境を作れるか」が重要であり、それが当たり前の状態をつくれなければなりません。
何か新しいことを行うたびに、リスクが伴う社会構造
何か新しいことを行うたびに、孤立が深まる社会構造
何か新しいことを行う度に実行リスクが問われる組織
何か新しいことを行うたびに、失敗が組織の中の評価を落とす組織
組織・集団の運営者はこれらの背景にある「リスク」を取り除き、文化として「小さなことでも新しいことをやってみること」があたり前になる状態をつくれるかが、「小さなチャレンジャー」を増やすコツなのではないでしょうか。
「リスクを排した行動は、もうチャレンジではないのではないか」と思われるかもしれないがその通りです。
しかし、多くの場合「チャレンジ」は何かしらの目的達成のための「手段」であり、「目的そのもの」ではないはずです。その目的達成のための「手段」がチャレンジ化してしまわないようにすることこそが、組織・集団の運営者の重要な役割ではないでしょうか?
多くの「イノベーター気質の人」はここに気づかずに「チャレンジしよう」といってしまっていないかを、改めて振り返ってみると良いかもしれません。
「チャレンジ」とは、その背景にある「リスク」を同時に定義する作業です。「チャレンジ」といえば言うほどに、非イノベーターは距離をとってしまうジレンマと向き合わなければならないのです。
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最後までお付き合い、ありがとうございました!!
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