《短編小説》いつかの春に
枯れ葉混じりの風が渡り廊下を吹き抜ける。
咄嗟に押さえたスカートの裾が、冷えきった脚に擦れて痛い。
受験シーズンを間近に控えた校舎は人気も少なく、女子達の甲高い喋り声も、運動部の喧騒も聞こえない。びゅうびゅうと吹き荒ぶ風の音に、トランペットの音色が微かに混ざっているくらいだ。吹奏楽部の真面目な部員が、卒業式に向けて個人練習でもしているのだろう。
あと1ヶ月。たった1ヶ月しかない。昨日、どこかで早咲きの桜が開花したという。凍りつくような寒さだから油断していた。春は、今にも、やってくるのだ。そうでしょう、先生。
渡り廊下を抜けて旧校舎に入ると、いよいよ人の気配がない。扉を閉めて外気を遮ると、何十年もかけてじわじわと染みついたホルマリンの匂いが鼻につく。理科室はすぐそこだ。
「先生」
姿を確認せずとも先生がいることはわかる。引き戸を開けっぱなしにする癖は、少なくとも3年は直っていない。この3年で変わったのは、私の背が少し伸びたことくらいだ。
「ああ、久しぶり」
書類仕事をしていた手を止めて、先生が顔を上げる。
「寒くないんですか?」
「そうでもないよ。ほら」
近付いてみると先生の右側にはインスタントコーヒーの瓶と、湯気を立てるマグカップと、湯沸かし器と化したビーカーがあった。熱源はアルコールランプだ。
「職権濫用ですよ」
「適度な休息も仕事のうちなんだから、これくらいは目をつぶってもらいたいな」
薬品とコーヒーの香りが立ち込めた冬の理科室は薄暗く、どこか退廃的で、日常から随分離れたような錯覚に陥る。先生が魔法使いで、何かすごい力でこの空間だけ切り取って、ふたりしかいない世界に送ってくれたらいいのに。
そんな風に思ってくれたら、いいのに。
「今日は、お返事を、聞きに来ました」
「うん」
「卒業式まで、待とうと思ったけど」
「うん」
「他のことが手につかなくて」
「うん」
「受験も、近いから……」
「うん」
嘘をつきました。受験なんて親に言われたからするだけで、私はただ先生に会いたいから、今日なら理科室にいるはずだと思ったから、来たんです。そんな本心を明かせるほど私は純粋ではなくて、3年かけて少し背伸びをしただけの子どもで、自信なんて微塵もないから、「お返事」なんて聞きたくないんです。
春は、今にも、やってくる。
その時私は、先生を、何と呼べばいいのでしょう。
沈黙。お湯が沸く音。遠い世界の風の音。水槽の淡水魚が小さく跳ねる。先生が一瞬息を吸い込み、唇がひらく。
* * *
渡り廊下の両脇には桜の木が並んでいて、それぞれの木の脇に「◯◯年度 卒業生一同」と刻まれた碑が立っている。新校舎に一番近いのが、先生が卒業した年の記念樹だ。その向かい側、今は土が敷かれているだけの場所に、私達の年度の桜が植えられることになっている。
先生の年の桜は大木と呼ぶにふさわしい成長を遂げており、時季を迎えれば一際見事に花をつける。その向かいに植えられた苗木も、いつか美しく咲き誇る日が来るだろうか。
風に乱れる髪を押さえながら、旧校舎を振り返る。しんと静まり返り、人の気配はない。今まさに先生がビーカーでお湯を沸かしていることも、「お返事」の言葉も、私しか知らないのだ。
「 」
かすかな声が風にかき消される。
顔を掠めた髪からほのかに薬品の香りがして、少し息が詰まった。
夫も書いております。
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