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カント『純粋理性批判』

まず、哲学書を読むときには、それが何のために書かれたのか、著者の問題意識を理解することが大切らしい。今回読んだ『純粋理性批判』でカントが解決しようとした問題はざっくり2点。

1. 自然科学の信頼性を解明すること

2.「よく生きるには何が必要か」の問いに答えること

①カントの前提

科学の知が客観的なものであると証明するためには、まず共有可能な客観的な認識の成り立ちを証明しなければならなかった。カントは、世界を2つに分けて考えている。私たちの心に現れた主観の世界『現象界』と、私たちには認識不可能な『物自体』、客観的な物そのものの世界だ。私たちは、主観の中に現れた現象しか認識できないので、客観世界を直接捉えることはできない。そのため、科学の知も主観的なものに過ぎないということになる。しかしカントは、どんな主観にも共通する規格があると考えることで、共有可能な客観的な認識が成り立つことを証明した。

②客観性の証明

ふつう私たちは、客観(物)があって、それを主観が写し取る(客観→主観)、と考える。しかしカントは、主観が客観を作り出す(主観→客観)と考えた。例えば、私たちがリンゴを見たとき、そこにリンゴがあるという情報を私たちが受け取る(客観→主観)のではなく、私たちが、そこにリンゴがあると思うからリンゴは存在する(主観→客観)というのだ。カントは、主観と客観の一致ではなく、主観同士を一致させることで、認識の客観性を論じた。カントによると、認識の客観性は、それぞれの主観がとらえた世界が他者と共有されることで可能になる。そして重要なのは、これらの共有の仕組みは、経験によって獲得されるものではなく、あらかじめ備わっているものであるとしたことだ。これにより、自然科学の知は客観的で共有できると主張した。


ところでカントは、古来の哲学は、神の存在、死後の魂、宇宙の始まりなど、究極心理の探求という答えの出ない問いを問い続けてきた、と指摘している。カントは、『純粋理性批判』を通して、それらの問いはどんなに考えても答えが出ないと証明して見せると同時に、答えの出ない問題のついて無益な議論を繰り広げるのではなく、『人間がよりよく生きるには何が必要か』を考える学問として、哲学を再生しようとした。


③『よく生きる』とは

カントは、『道徳的に生きることが幸福に値する』と述べた。これは決して、幸福になるための手段として道徳があるのではなく、道徳的に生きた結果として幸福に値する、という考え方だ。そして、道徳的に正しく生きることを支えるものとして『神への信仰』を位置づけた。彼が実現すべきとして思い描いていたのは、身分の上下がなく、すべての人が自由で対等な存在として尊重しあい、調和して暮らしている世界だ。そして彼は、社会の中での成功や富や評判にまどわされない、『人として最高の生き方』、『新たな自由な生き方』を示そうとした。彼の道徳論は、決して自己犠牲を強いるものではなく、自分自身への配慮が含まれている点も重要だ。彼は、他者の幸福を考えて行動するだけでなく、自分のことも尊重し、自分の能力を進歩させることも、道徳的な義務であると述べている。

④カントの功績

カントは、哲学の『答えが出る領域』と『答えが出ない領域』を明確に区分し、答えの出る領域に狙いを定めて議論すべきとした。そこには、「これは本当に答えの出る問題なのか」といった、問いそのものを吟味するという発想がある。あらかじめ絶対の『正解』を見つけたり、『人それぞれの答えしかない』と決めつけたりするのではなく、『人々が納得できる合理的な共通理解はどうやったら可能か』を考える姿勢をカントは示唆している。これは哲学の領域に限らず、国家間の問題や人間関係にも使える。私たちはしばしば、考え方の違いから敵対してしまうことがある。こうした軋轢は、『自分こそが正しい』と思いこんでいるために生じてくる。『共通理解に至るために何が必要か』と発想を転換することで、対立を克服していけるかもしれない。





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