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プロセスが楽しい人生
いつだったか泣きながら
"実家に行くとなんかしんどい、上手くやれない" と愚痴った時
美雨が「親を捨てる」と言った。
まさか、と思った。
だって親って絶対に仲良くすべき存在だと思っていたから。育てて貰った恩があるし、お米くれるし。え
だけど私は知っていた、美雨との対話中に出てくる言葉は私の本心であるということを。つまり私は本当は、仲良くしたいなんて1ミリも思っていなかったのだ。食うに困っていないにもかかわらず、思考の貪欲さと、いわゆる一般常識が、私を無理やり親に会わせていたのだ。
当時私は定期的に実家へ行き、全く興味がない親の話を聞き、正月などは家族が一人ずつ今年の抱負を述べていく(とにかく何か喋らないといけない)地獄のような儀式に参加していた。
とても苦痛で、そんな風に思うのは親不孝だから
「実家を楽しめる自分」になりたかった。
・・・逆!
苦痛じゃない場所で過ごせーー!
そういうことなのだ。
ずっと嫌なことさせててごめんね自分、と思った。そして、心の底では親に対して「会いたいならお前らが来いや」と思っていることに気づいた。ひゃー偉そう。でも私の中にはとんでもない俺様がいるのです。それを無視すると、変に攻撃的になったり、自分を痛めつける行為に及んでしまう。
そういったことがわかったので、私は実家に行くのをやめた。価値観が違いすぎる彼らを、着信拒否にした。何かあったら何とかするだろうし、私にしかできないことがあれば協力するつもりでいる。っていうスタンスに落ち着くまで、結構かかった。罪悪感があったから。でも罪悪感は結局、自分が作っているのだと思う。自分の中のドリームキラー。人生を停滞させる。
なぜこんなことを思い出したかというと、最近この本を読んで爆笑した箇所の一つがここだったから。
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※真上から撮ってます。改行どうなっとん
美雨は本当に、親っていう存在について、その辺の通行人みたいに言う。これは衝撃だった。私はスピリチュアルに傾倒していた時、前世の何か、カルマとか、魂の課題とかで、親子関係は「絶対に問題として扱わなければならないもの」だと学んだ。お母さんお母さん言ってる心理学?もたくさん見た。
けど今は思う、たとえそういう魂的な?深層心理的な?何かがあったとして、取り組むかどうかを決めるのは俺や。なぜなら俺の人生やから(暑苦
私が月夜の祈りに触れてすごく心地いいと感じるのは、たとえば親子関係について「早めに縁を切ることが正しい生き方です!」とかじゃないところ。それは人それぞれ。気が合うなら楽しく付き合えば、みたいな空気。何も強要しない。美雨はほんとに、私が今まで出会ってきた、依存させる系の講師とは全然ちがう。
とにかく自分の感覚に従って「これはもう謎文化だな」と思うことはやめる。それがどれだけ世間でメジャーなことであっても、捨てる。
私は実践の様子をこのようにSNSで書いているのだが、時々、全く知らない人から長文の説法?が届くことがある(アメブロ時代にあった)。「○ね」と一言メッセージが来たこともある。いやお前誰?って今は思うけど、その時は泣いた。
でも、思いきって行動を選んで生きることは、途中で叩かれることも含めて楽しい。人の顔色を伺って、ナデナデされていた時は穏便だったけど、心が死んでいたなと思う。
他の誰でもない、自分とのパートナーシップを築いていく。
まだ始まったばかり。