GRACEワークショップ@京都
有難いことに連日素晴らしいクライアントさんとの出会いがあり、お仕事が多忙を極めておりとっても遅くなってしまったのですが、、
先月、京都で開催されたGRACEワークショップがとっても素晴らしかったので、遅ればせながら、レポートを。
GRACE は、アメリカの禅僧で人類学者、ハーバード大学の名誉研究員でもあるのジョアン・ハリファックス老師により開発された、コンパッションを育み人生の困難を乗り越えるたのメソッドです。
3日間のワークショップだったのですが、私は家庭の事情で初日は不参加、2日目オンライン、3日目は京都の会場にてリアル参加。
3日目は息子たちを父に託し(感謝!)、早朝、京都に向かう電車で自分の過去の体験を思い出していました。
ちょっと本題に入る前に、私が大学時代、アメリカで経験したボランティア留学のお話をさせてください。
サンフランシスコでの強烈な体験
私は大学生の頃、短い期間だったのですが、アメリカで路上生活者支援のボランティアをしたことがあります。
その時は、
・純粋な利他の心で活動している人々の生の声が聞きたい
・非営利の精神がなんだか気になる
という本当にピュアな思いで参加しました。
そして自分も何かできることをしてみたい。
学生ながら、そう思っていました。
でも、現地で経験したことは、当時の私とって辛い出来事ばかりでした。
まず、ありのままの現地の状況を見るのが、すぐにこわくなりました。
その怖い、には色々な種類がありましたが、一番は自分が傷つけられるのではという恐怖。
また、共感力が人一倍高い私は、他人と自分の境界を引くのが下手で、色々な話を聞くうちに共感があっという間に共感疲労に変わりました。
そして自分一人が何を変えられるんだろうという無力さとともに、
世界は実はものすごく暗い場所なんじゃないかと、思うようにもなりました。
自分自身の中にある見たくない偏見にもどんどん気づいていき、
他人と自分を重ね合わせて共感する一方で、
「支援する側とされる側を、もっとも区別していたのは自分だった」
それに気づいた時は、かなり衝撃的で、
同時に「自分がやろうとしてるのは、ただの偽善」と、自己嫌悪にも陥りました。
アメリカでイキイキと自分のボランティア活動について話をする人を見ては、
自分には到底、あんな人たちにはなれない。と、
眩しさと同時に、自分の情けなさを感じ、
自分の限界を痛いほど突きつけられたのが、アメリカでの強烈な思い出。
加えて当時の私の英語力は悲惨なくらい低く(この屈辱的な経験のおかげで今は多少ましになりました笑)、
コーディネーターとのコミュニケーションがうまく取れず、というか自ら避けるように自分の殻に閉じこもってしまい、
期間中、そういった葛藤も全く外に出すことが出来ませんでした。
今思うと、そこは語学力の問題ではなかったのかもしれないけど、自分の脆さ(ヴァルネラビリティ)をさらけ出すことも当時の自分にはできなかった。
参加していたのは高学歴で優秀な方ばかりだったので、自分も鎧をまとわなければ、仲間として認められないと思っていました。
ドミトリーの2段ベッドでよく、夜寝る前、ルームメイトに気づかれないように声を殺して泣いていたのを思い出す。
惨めで情けなくて、
それを出せない自分も嫌い。
この期間は、とにかく辛くて辛くて、自分で参加を決めたにもかかわらず早く抜け出したいと思っていました。
この経験から学んだこと
ボランティア体験を終え、帰国する前、スタンフォード大学で
「この期間で学んだことは何か?」
これを端的に発表する場がありました。
ずっと、
私はここで何が言えるんだろう?当日その場にいれるんだろうか?
そんなことが期間中ずっとモヤモヤしていたのですが、自然と出てきた言葉が、これでした。
「私はこの期間で、『自分はマザー・テレサにはなれないんだ』とわかりました。
でもそれで良い。私には私が出来ることをすればよい。」
自分の「限界」を受け入れた瞬間でした。
すぐにはなくなりそうもない自分が持っている根深いバイアスや、自分が適正な他者との距離感を保てないこと(コンパッションに必要な『共感』と行き過ぎた『共感疲労』のバランスが取れないこと)。
今の私には、出来ることは限られている。
そう実感し、
自分を守るためにも、自分が対応できる範囲だけを見て(能力以上の現状を見てしまうと辛くなるので)、出来る部分の関わりをすればよいと、心に決めました。
そして今まで来た私の人生。
これで良いような、ずっとこのままではいけないような。
そんなことを感じながら京都の研修センターに向かいました。
GRACEワークショップに2日間参加して
お待たせしました、ようやく本題。
ワークショップは、
GRACEという実用的なそれぞれの実践について、
概要説明→脳神経学からの解説→ボディワーク
という順番で繰り返し進められており、
頭でも体感でも学びを深められる素晴らしい構成でした。
そしてびっくりしたのは、
内容自体、扱っているテーマも人間や人生の本日に関わる意義深いもので、
受講されている方も日頃から人の死と向き合うお仕事をされている方が多く(ホスピス等緩和ケア、緊急医療の現場、グリーフケアなど)、シリアスになりがちな場ですが、
そこでの学びをあいうえお作文にしそれを皆で歌うというかなり愉快な歌の時間があり(ギターを持って弾き語りをしてくれます笑)、
適度に緩み、皆で笑って心が一つになる瞬間もあり。
私は最終日のみの現地参加でしたが、スタッフの方も受講生の方も、
目が合えば皆にっこりとほほ笑んでくれる。
どこから来たの?普段何をしているの?って、あまりにも自然に聞いてくれる。
とにかく素敵な空間でした。
ジョアン・ハリファックス老師の言葉は、どれも老師のすさまじい経験から語られる生きた言葉で、
どれ一つして、上っ面な知識や浅はかな考えから生じてくるものではないというのはすぐに分かりました。
印象に残ったお話は山ほどありますが、私が深く残っているフレーズが1つあります。
セルフ・スチュワードシップについて言及している場面で、
この言葉について、老師は「自分の限界に”敬意”を払う」という表現をされました。
私は、敬意という言葉に過剰に敏感して、同時に、自分には出来ないなと思ってしまった・・・
以前アメリカで経験したように、自分が人一倍共感力が高く、なおかつうまく他者との境界を引けない(過酷な状況に対して、ですが)ことは、その後多くの場面で経験して実感していたので、
自分の限界というのは理解し、受け入れてはいました。
ただ、
「なぜ自分にはそれが出来ないのか。」
周りにはそこをうまくコントロールしている方がいる中で、それが出来ない自分には、スキルなのか覚悟なのか、何か足りないものがあると思っていました。
なので、到底、この限界に敬意を払うなんてことは、できそうもない。
ただ1つ、掴んだものがあります。
会場で出会う方々は医療職の方がほとんどで、緊急医の方、終末医療に携わる方、緩和ケアをされる方、遺族の苦しみに寄り添うグリーフケアの方・・・
そう、幼いころから私が尊敬の念を感じずにはいられない方々です。
今回その方々とも深いコミュニケーションをとることで、皆日々そのバランスに悩みながら、そしてそのバランスを崩したりしながら、
時に心を亡くすことでその場を乗り切ったり、
その現場を離れるという選択をとり、その選択をとった自分を責めながら、
いまここにいるということです。
そしてそうやって悩みながらもがきながら、
でも今自分のために、他者のために必要なものはこれだとコンパッションを学びに来ている
そして自分が進むべき道を、大事にすべきものを現在進行形で探し続けている
その過程が、とってもかけがえないもので、美しいなということ。
そしてこれは、次元は違えど、私にも言える事なんだということ。
きっと本当の意味でのコンパッションというのはすぐに体現できるものでもなく、筋肉を鍛えるように地道に鍛えていくものなのだと思うのですが、
その過程で、少しずつ私も、自分やその限界に、敬意を払える時が来るのかもしれない。
ただ、それが実現しなくても、今の自分の姿勢そのものに価値がある。
そうやって、また一つ自分を受容することができました。
この会場で、素晴らしい方々に出会えたことは、私にとってこの世界は温かく、明るいと改めて感じさせてくれる時間でした。
このワークショップに関わった全ての皆さま、ありがとうございました。