【自分より先にある好きの気持ち】自分の意識の前にあるもの。
探究の時間に訪問している高校で、今日も生徒たちと話をしてきました。今年で3年目の関りになる高校では、3年生はもう受験本番。1年生だった彼らが3年生。
あっという間だ!
3年生のみんなは、去年の宮城県Summit にもエントリーしてくれて、すごい良い表情を見せてくれました。マイプロに関わって初めて対面の宮城県Summit を開催して、生徒の生き生きした姿が目の前にあったことは、私の中でも大きな出来事でした。不器用でも歪でも、言葉にならなくても、高校生の色んな想いを、評価したり審査したりするのではなく、たくさんの大人で、耳を傾けて一緒に考える1日を、これからも創っていきたいと思えたのは、関わった高校生のみんなが、すごく良い表情を見せてくれたこと、それに尽きます。
今日も、片道1時間以上かけて、養老先生のYouTubeを聴きながら高校へ行ってきました。養老先生はよく、日本の子どもの自死が多いことに触れられます。子どもが心配だと、よくおっしゃっています。
最近の日本で大きな特徴は、若い人が死ぬことです。10代20代30代っていうのは、普通人は死なないんですけど。病気で。死因のトップは、自殺なんですよ。日本の場合。どうして若い人が死ぬのかなと思って、この話を若い人にすると、けっこうきつく反応が返ってくる。どうして死んじゃいけないんですかと、食って掛かられちゃう。要するに、私が死ぬなと言っているという風にとって、そしてそれに対して、余計なお世話じゃないかと。なんか、権利の侵害みたいに思っているんじゃないでしょうか。つまり、自分の人生を自分で止めるのは、自分の権利だと。それを妨害するんじゃないかというか、そういう風にとってるのかなと思ったりします。
そこで考えて欲しいのは、これです。「自分」ってなんだということ。
養老先生の話を聴きながら、極端に欧米化してきた日本で起きている歪みみたいなものを、考えながら高校に向かいました。
何か選択の機会があるときに、何かと言うと欧米では、そこで決める“主体”は“君”ですよと言う。僕(養老先生)にしてみると(それは)、押し付けなんですね。小さい頃からそれをやっていますから。3歳の子どもにも、どの色がいいかを聞く。選択の主体、“わたし”が存在すると伝える。そこから“わたし”というものを作っていきますから。ああいう文化では。
君たち(高校生)にそういうものがなくても、全然恥ずかしいことでもなんでもない。日本ではそういうことを言いません。
ハーバード大学の教授の「選択の科学」という本がありますが。そこに出てくる例で言うと、子どもに色を塗らせたとき、どうしてその色を選んだのかを聞くと、同じアメリカでも、欧米系の子どもは当然「私の好きな色」という。
アジア系の子どもはなんというかというと「お母さんの好きな色」という。
日本の文化の中に、これが入ってくると、奇妙な主体が生じてくる。俺は死んでもいい、みたいな主体が出てくる。そういうところに主体が出てくる。
哲学者のデカルトは、「我思う故に我あり」と言ったし、ソクラテスも、「汝自身を知れ」なんて言いました。そこにあるのは、「私」。「私がある」という前提があります。
一方で、古代インドの哲学者である龍樹は、自分なんてない、全ては「空」であると言いました。
AKIUSCHOLĒ のホームページでも、「自分の選択で、自分の人生を」なんて言っています。これも実はけっこう、欧米的なんだろうなとも、思わされます。確かに、デンマークでは、本当に小さな時から、「あなたはどうしたいのか」を問います。
それを是として、私はこれまで生徒たちに接してきたし、「あなたはどうなのか」と問うことや、「“マイ”プロジェクト」なんて言っている。わたし、なんてものが、どれだけ「ある」ものなのか。英語では必ず会話するときもなんでも、「I」や「You」、主語がある。
でも日本語は、毎回、「私は」なんて書かない。
そんなことを考えて、もやもやもやもやしながら、高校に到着しました。
そしたら生徒たちが、「石が好き」と言って目を輝かせていたり「ロボットが好き」って言っていたりしました。
それはきっと、「自分が」より先にあるんだろうなと、思います。
「私は、石を好きになりたい!」と思うより先に、気になっていた。私より先にあるもの。それがなんなのか分からないけど、私はそれを、大事にしたいなと、思いました。
AKIUSCHOLĒ で言う「自分の選択」も、「自分」よりも先にある、何かを大事にしたいのかな。
今日もお疲れさまでした!