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Call me by your nameをプラトンの饗宴とギリシア彫刻の観点から深掘りしてみる

 Call me by your name。日本題、君の名前で僕を読んで。2018年公開。原作小説アンドレ・アシマン。舞台となるのは1980年頃の北イタリアのどこか。そこで17歳のエリオと大学院生のオリバーが出会う。そんな彼らのひと夏の恋を描いたアカデミー賞受賞作品。そこで描かれるのは同性愛、もしくは同性愛ともくくることのできない特別な感情。そしてそれに彩りを与えこの作品を名作たらしめているのが、いくつもの場面で垣間見える神話のオマージュ、古代ギリシア彫刻と文学である。今回はこのCall me by your nameに見られるギリシア彫刻とギリシア神話を見ていきたいと思う。



1.アンドロギュノス(両性具有)と"Call me by your name"

 アンドロギュノス。両性具有。これがこの映画の核となる考えである。

 アンドロギュノスはプラトンの饗宴に描かれている。エロス、愛を語る中でアリストファネスは言う。元来人間は男、女、そして二人が一対になった人の三種類がいた、と。その二人が一対となっていた存在がアンドロギュノスであった。二人の人間はお互いに背を向けた状態で背がつながっていて、腕は4本、脚も4本といった具合であった。しかし彼らは神々を攻撃するために天に昇ろうと企て、そのような冒涜のため、凶暴性を弱めようと神ゼウスがアンドロギュノスを背中で二人に分けてしまったという。そして元は一つだった人間が本来の姿を取り戻すため、元は同じだった半身を求め続ける。しかし半身と一体になる事を求め続け、腕を絡め合って働かず、滅びていったと。ゼウスがこれを憐れんで別の手段を生み出すのだが、つまりは半身を求める欲望が現在の恋や愛とは比べ物にならないほどに強い感情であるのだ。作中を作品たらしめる、作品名にもなっているシグニチャーなセリフ“Call me by your name, and I'll call you mine.”にはまさしく両性具有の考え方がみられる。なぜ、自分を相手の名前で呼んでほしいのか、なぜ自分の名前で相手を呼ぶのか。それはエリオとオリバーはもともと一対の人間であったからで、お互いがお互いを片割れとして探し求め続けていたからである。エリオがオリバーを「エリオ」と呼ぶことで、オリバーがエリオを「オリバー」と呼ぶことで、オリバーはエリオ自身になり、エリオはオリバー自身になるのである。つまり、二人が一つになるのである。自分の名前で相手を呼ぶ行為、それは相手を自分自身にしてしまう究極の愛の形なのである。そして、これほどにまで彼らがお互いを求めていたのもかつて二人はアンドロギュノスであったからであり、恋や愛とは比べ物にならないくらいの大きな感情を抱いているのだ。

2.冒頭クレジットの彫刻

 映画の冒頭、意味ありげにギリシア彫刻と思わしきものがキャストや監督といったクレジットの背後に次々と映し出される。

 エリオの父が大学教授で専門分野がギリシアの美術であるのでそれを強調するためにこのシーンを作っているのかもしれないし、単に映像作品としての視覚効果としてだけ取り入れているのかもしれない。しかしここまで考えられている映像作品で無意味に映していると考える方が不自然なので何か意味を見出したい。

 まず、映し出されている彫刻はそれぞれ何なのか。オフィシャルに明言はされてはいなかったがネットを頼りにそれらしき情報にたどり着いた。まず分かったのが映画内に出てくる彫刻は映画の小道具として完全オリジナルであるらしいこと。しかし冒頭のクレジットで流れる彫刻の写真は本物であること。このままただ彫刻の名前を羅列しても良いのだがそれでは情報を引用しているにすぎないのでそれぞれの彫刻が映し出される意味を考えていきたいと思う。

①ティモシー(エリオ役)のクレジット"Ephesians Apoxyomenos"

②アミー・ハマー(オリバー役)のクレジット"Croatian Apoxyomenos"

これはどちらもアポクシュオメノスである。アプクシュオメノスとは古代ギリシアの身体についたほこりや汗を掻き取る肌かき器を使うアスリート像である。これがどのような意味を持つのか。正確にはわからないがアプクシュオメノスの語源にはto clean oneself というものが挙げられる。運動をしたあとにほこりや汗や拭き取るという意味でto clean oneself だがここでは自分の外側、社会的な面をcleanするという意味で使われているのではないだろうか。作品中で彼らは社会的な視線に縛られているがその一面を削ぎ落として自分を磨くのではないだろうか。彫刻の方に着目して考えてみると汗や汚れを落とすという行為によってアスリートとしての一面から脱して本来の自分に戻るといった意味があるのかもしれない。アスリートは筋肉美であり男らしさが求められる。この肌かき器によって社会的な男らしさからの脱却をする。そしてこの社会的な男らしさの脱却により内面の発見をするのではないだろうか。

 男らしさからの脱却=同性愛の肯定という解釈は時代背景からしてミスリードであると思うが、もがく青年期の中で世間体を削り取ることを示唆しているのではないか。実際エリオの父(教授)はラストシーンでこう言っている。 “But to make yourself feel nothing so as not to feel anything. What a waste! Our hearts and bodies are given to us only once.” 私なりに訳してみると「何も感じないようにと自分の内なる感情を無視し続ける。それはあまりにも勿体ない。私たちの心と身体はたった一度しか与えられないのだから。」この作品は社会的な面ばかり気にして自分の内なる感情を見ないように、無視し続けている私達に本当にそれでいいのか問いかけているのだと私は思っている。そしてそれを示唆するのが社会的な一面を削ぎ落とすアポクシュオメノスなのだと思う。

3.水から引き上げられる彫刻

 作中でも印象的な、湖からブロンズ像が引き上げられるシーン。考古学者である父の研究の一環で引き揚げるのだが、エリオとオリバーが微妙な空気感の中、オリバーがブロンズ像の腕をもってエリオに差し出し、握手。停戦だ。という。

 このシーンの意味は何だろうか。まず、その時点でブロンズ像が残っているというのはやはり沈没船などで水の中に眠っていたからである。ブロンズは価値があり残っているものは溶かされてしまうので後に残らない。

 このブロンズ像を介して握手をする意味は何だろうか。このシーンが示唆するものは何だろうか。沈没して、湖の奥底に眠っていたブロンズ像。これが長い年月を経て引き上げられる。オリバーの中に眠っていた感情を引き上げることにつながるのではないだろうか。エリオは比較的自分の感情に素直に生きている。(理解のある両親のもとに育ったからでもあるし、まだ世間を知らず幼いからである)対してオリバーは誰からも「好青年ね」と言われる。良い人間であろうと常に務め、時には感情を(意識的か無意識的か)押し殺している。それは同性愛者は矯正施設行きだなどという両親のもとに育ったからであるし、エリオのように子どもではないからだ。そんなオリバーが自分の心の奥底に眠らせていた「エリオのことが好きだ」という気持ち、それが心の奥底から引き上げられたことのメタファー表現なのではないか。そしてここでほかでもなくブロンズ像である意味はそれがとてつもなく長く眠っていたことを示すこと。そして価値があるのに眠っていたこと。眠っていたからこそ価値を放つこと。

 また、この引き上げられたブロンズ像の唇を指で触る仕草がある。これはエリオのことを思った、だけでなく自分の隠していた感情に触れるという意味があるのではないだろうか。

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