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オーストラリア・俳句シンポジウム その1

金森マユの報告1

"Haiku and Australia - borderless, but placeless?" 『俳句とオーストラリア ー 境界を越える、でも、場所は?』がオーストラリア学会第35回全国研究大会での豪日交流基金(AJF) 助成シンポジウムの一環として6月15日、松山大学の樋又キャンパスでに行われた。

松山大学の湊圭史先生の司会により、メルボルン大学所属、俳句研究者、作家のグラント・コールドウェル先生とオーストラリア俳句協会副会長、俳人ロブ・スコット両氏の報告の後、愛媛を代表する俳人で月刊「子規新報」編集長小西昭夫さんのコメントや会場からの質疑と応答があった。

金森マユのオーストラリア俳句・報告1では、コールドウェル先生の 日本語圏以外の詩人による俳句創作 (“Writing Haiku by non-Japanese poets”)
の一部を自分自身があらためて日本語で学ぶために報告エッセイとしてまとめてみた。次回の金森マユのオーストラリア俳句・報告2ではロブ・スコット氏のお話から学びたい。


日本語圏以外の詩人による俳句創作

 Writing Haiku by non-Japanese poets

コールドウェル先生はまず、ハルオ・シラネさんの著書の中に読む松尾芭蕉の「不易流行」とは、

「変わらないものと変わり続けるもの、、、俳諧はつねに変化(流行)しつづけ、新しさ(あたらしみ)を見出し、自らの過去を脱ぎ捨てなければならない ー それが時を超えた価値をみ出そうとするならば。」

"The unchanging and the everchanging... haikai must constantly change (ryu-ko), find the new (atarashimi), shed its own past, even as it seeks qualities that transcend time."

ハルオ・シラネ 『Traces of Dreams: Landscape, Cultural Memory, and the Poetry of Basho 』(1998 スタンフォード大学プレス)

と切り出し、そこから、「不易流行」の考え方は日本文学・文化のみならず、普遍的だと言う話を続けた。

前置きのようにコールドウェル先生は次に、

「 「詩」は頻繁にではなく仕方なく書かれるべきである。悪い精霊ではなく良い精霊が私たちを彼らの道具として選んでくれることを希望しつつ」

"[Poems] should be written rarely and reluctantly, under unbearable duress, and only with the hope that good spirits, not evil ones, choose us for their instrument."

チェスワフ・ミウォシュ     ポーランドのノーベル文学賞詩人 (1980)

と話す。

一日一句は詠もうと、俳句創作を習慣化させようとしている自分の耳が痛い。

次に本題の「不易流行」に関して、

「個別のものにこそ普遍的なものは含まれる」

"[I]n the particular is contained the universal."

ジェイムス・ジョイス 『ユリシーズ』(1920)

確かにそうだと納得しながらも、固有名詞の応用はどうなのかと密かに疑問を持つ。先生は、

「何物も同じ川に二度足をふみ入れることは決してできない。なぜなら川は元の川ではなく、また彼も元の彼ではないからだ。」
「どんなものも変化することはない。変化そのものを除いては。」 

No man ever steps in the same river twice, for it is not the same river, and he's not the same man."
"Nothing changes but change itself."

ヘラクレイトス

と古代ギリシャの哲学者の言葉を投げかける。

え、そっち行くの?納得するしかない。

考える余地もないうちに、次に先生は、

表現できる道は永遠の道ではない。
名づけうる名前は永遠の名前ではない。
天地の始まりを、私は「不在」と呼ぶ。
個々のあるものの母を、私は「存在」と呼ぶ。

The Dao that can be expressed
is not the eternal Dao.
The name that can be named
is not the eternal name.
'Non-exisitence' I call the beginning of Heaven and Earth.
'Existence' I call the mother of individual beings.

老子

さっきの自分の固有名詞に対する疑問の幼稚さを象徴するように、老子を持ってきた。

そして、ここでオーストラリア先駆者ジャニス・ボストックの伝記の著者、オーストラリア俳句研究者シャロン・ディーンから、

「普通のものに掲示を見出すというと禅の考え方のように聞こえるかもしれないが、高められた知覚への誘いというのはたいていそのように響くのだ。速度を落とし、目の前のものに注意を向け、明確にかつ正確に書くようにせよ。これは禅の悟りであっても、科学的研究における段階的な手続きであっても変わらない。したがってより正確に述べるなら、禅とは心のさまざまな運び方のひとつのやり方であって、そこには俳句における価値ある教訓との共通点が数おおく見出せるのだ。」

"While discovering the revelatory in the ordinary may sound like Zen, it also sounds like any other exhortation toward heightened perception: slow down, pay attention to what's before you, write clearly and accurately. This might just as well be a step-by-step procedure in scientific enquiry as Zen understanding. What may be more accurately said, then, is that Zen is one of several orientations of mind which holds in common many of the valued precepts of haiku."

シャロン・ディーン「White Heron: The Authorised Biography of Australian Pioneering Haiku Writer, Janice Bostok」(2011)

そして、禅の多くは教義は老子の教えからだと付け加えた。

最後に先生はハルオ・シラネ さんの Hearn, Bickerton, Hubbell: Translation and Definition から、

「芭蕉が信じていたのは、、、、(略) 詩人は両方の軸に沿って努力しなくてはならない。現在に閉じこもって努力しても短命な詩が出来るだけである。反対に、過去に閉じこもって努力しても、日常生活に根差している俳句の本質から切り離されてしまう。俳諧はその本質において反伝統、反古典、反権勢であるが、それは過去を拒絶することを意味しない。」

"Basho believed that [...] the poet had to work along both axes. To work only in the present would result in poetry that was fleeting. On the other hand, working just in the past would be to fail out of touch with the fundamental nature of haiku, which was rooted in the everyday world. Haikai was by definition, anti-traditional, anti-classical, anti-establishment, but that did not mean that it rejected the past."

ハルオ・シラネ さん Hearn, Bickerton, Hubbell: Translation and Definition

質疑応答の際に会場からの英語での5−7−5の十七音の引用に関しての質問があった。コールドウェル先生は英語で詠まれた俳句は十七音より短くするのが通常だと述べた。俳句にはそれなりのリズム感は取り入れたとしても、音節の数は決まっていない。

この件に付き、本レポートの読者のために、コールドウェル先生から説明メールが届いている:

英語を書く俳人の多くが5-7-5を無視する理由は以下の通りである:

1. 日本語の5-7-5の音の単位(mora モーラ)は、ゲルマン語の音節とは大きく異なる。良い例として、日本語の「ニッポン」は4モーラだが、英語では2シラブル(
音節)だ。英語の5-7-5音節で俳句を詠むとなると(間違って5-7-5音節になっていルものも多くあるが)、翻訳すると大概12-17-12音節ぐらいになる。

2. この「ルール」は子規の時代に多くの日本人が放棄したと理解している。もちろん、いつの時代にもルールに頑固な人はいる。

3. 英詩には確かにリズムがあるが、同時代のリズムは、俳句を含め、詩人が使う言語に内在する「自然な」ものとみなされ、規則によって強制されたものではない。エズラ・パウンドは「我々はもはやメトロノームのよううに聞こえたくはない」と述べている。ここでもまた、古くから要求されているメーター、そして実際に韻律に従う現代詩人がいることは確かだ。しかし、これは時代遅れなのだ。

4. 英語の俳句における17音節以下という一般的な「ルール」は、簡潔さと、思考/考察のための空間(間)の創造、そして、自然のリズムを目的としている。ジャズの自然なリズムをそれ以前の音楽形式と比較してみるとわかる。

マイケル・ディランーウェルチMichael Dylan-Welch の説明が気に入っている:

翻訳もまた、時には誤解の犠牲となる[......]。この場合の根本的な誤解とは、英語における俳句は5-7-5音節の詩であるという思い込みであり、西洋で俳句がいかに広くそのように教えられているにもかかわらず、それは実のところ都市伝説である[...]。実際、著名な日本語学者であり、翻訳家でもあるハルオ・シラネが 川本 皓嗣 の『日本詩歌の伝統』を紹介する際に「シラブルという用語は、日本の詩の実際の音節単位を説明する不正確な方法である」と強調している。

そのため、[...] 英語の5-7-5シラブルのパターンは、日本語の形式を守っているのではなく、実際には反していと言える。したがって、17シラブルの詩は、ほとんどの場合、日本語の17音で語られる内容よりもかなり長い(内容のが多い)詩が詠まれる。このような理由から、敬われる 俳句翻訳者のほぼ全員が、一般的に5-7-5シラブルには従わず、10シラブルから14シラブル程度のバージョンを作る。この選択は、原文の長さとリズムにより忠実であり、翻訳者は、誤った5-7-5パターンに固執するために恣意的で厄介な行の詰め込みや切り取りをするのではなく、英語の自然な音声リズムと改行に集中することができる。端的に言えば、読者は俳句の音節を数えるのをやめ、詩人(あるいは訳者)が 「正しくやった 」かどうかを確認するのをやめるべきだ。さらに、この重点を変えることで、翻訳者(ひいては読者)は、5-7-5音節が英語にとって正確であるという強迫的で誤った思い込みによってしばしば曖昧にされる、俳句というジャンルのより重要な側面に注意を払うことができる。」

以下の2つの英語の俳句は、すべての言語が持っている「自然な」リズムを、この後に続く翻訳された日本語の句と同じようにリズムを示していることを願う。最も注目すべきことは、4句とも英語の17音節よりはるかに少ないことである!

spring—
two bike riders
hand in hand

morning—
I fall into
the sound of children’s voices

************************************

first snow
falling
on the half-finished bridge

                                                                Basho

A tethered horse,
snow
in both stirrups

                                                Buson

************************************

追伸、先日、私の俳句が偶然5-7-5音節になっているのを発見しました!!

グラント・コールドウェル先生からのメールより・金森マユ訳

オーストラリアだけではなく、世界に置いての俳句は日本の伝統文化としての俳句の原点を拒絶することはないが、英語で詠まれ、また季節やそれに携わる生き物や行事の違いなどからも形が変わっても不思議ではないと思った。「不易流行」の考え方は日本文学・文化のみならず、日本以外の俳句(世界俳句)には必要不可欠なのだと思う。

オーストラリアの俳句史と現形については次回金森マユのオーストラリア俳句・報告2の中でオーストラリア俳句協会副会長、俳人ロブ・スコット氏のお話を通し探究してみたい。


グラント・コールドウェル Grant Caldwell 先生のプロフィールはこちら
https://findanexpert.unimelb.edu.au/profile/257-grant-caldwell

グラント・コールドウェル Grant Caldwell 先生の英文俳句のデジタル本『blue balloon』はこちら

グラント・コールドウェル Grant Caldwell 先生の『blue balloon』の購入はこちら


*このレポートの内容はグラント・コールドウェル氏とは確認をとっておりますが、日本語上達のために始めたノートです。英文学の専門家の翻訳を行えるような日本語力も翻訳力も持ち合わせておりません。気になる点がございましたら、ご連絡ください。どうぞよろしくお願い申し上げます。

#AJFGrants


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