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[俳句編] 2024/5年ファイルしておきたい記事

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勉強になったり、読んで面白かった俳句関係の記事をファイル代わりに集めました。勝手に集めてしまい、ご迷惑でしたらご一報いただければ、外します。
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記事一覧

多文体での俳句づくり 〜文語体、口語体、会話体の新作作品集〜

多文体での俳句づくり 〜文語体、口語体、会話体の作品集〜 現在、俳句で使われる言葉には以下のようなものがあるようです ◇古典的な言葉 ━━ 古典語、文語体 ◇現代的な言葉 ━━ 現代語、口語体 ◇現代の話し言葉 ━ 普段話す言葉、会話体 俳句を創作する際には、これらのいずれかの文体を基本使用することが多いようです 上記の各文体でつくった 2025年1月の新作作品集です 読みくらべなど よろしければ楽しんでみてください ◇口語体俳句◇ 句集「早春」50句 ◇

俳句の周辺:変だよ日本人の季節感覚

 日本には「四季」があるというが、本当にそうだろうか。歳時記を捲るほどに、その疑問は大きくなる。日本国民の季節感など、実はいい加減なものなのではないか…  古くから繰り返されてきた改暦も混乱要因である。明治の改暦では、「新春」を「冬」の中に押し込めてしまう荒業をも繰り出した。  それは、明治6年(1873年)1月1日のこと。太陰太陽暦を廃止し太陽暦へと移行するため、旧来ならば明治5年(1872年)12月3日に当たる日が元日となったのだ。そうすることが決まったのは11月9日。

シン・俳句レッスン181

現代俳句 もう2月号が届いたのだが『現代俳句2025年1月号』の選句をしたいと思う。1月号は新年号だからか名のしれた俳人が多い。 七五八だからぎりぎり定型だという。五七でも七五でもいいということなのか?意味不明。月面に時雨なんてないだろう。これは象徴句なんだな。月面が二人だけの世界というような。結句の口語体がポイントか?「よう」だから直喩だった。「いるごとく」との違いは何だ?軽い感じか。令和の軽さか?「いるごとく」では重いわな。浮遊感があるかもしれない。ふわふわと。

シン・俳句レッスン180

句会反省会 今月は冒険したのに零点だった。 三角ベースがわからなかったのだろう。あと、メジロの三角飛びとかの意味もあったんだけど。「や」の重なりか。リズムがあっていいと思ったのだが。 「レンチン」が駄目だったか。今風だと思ったのだが。 これは難しと思った。鴨が泳ぐ時に波紋が出来て、その中を抜け出せないで泳ぐ姿を見て自分と重ねたのだった。つまり鴨の波紋のなかにワープしたという句だった。まあ突飛と言えば突飛の歌だな。 今回一点も入らなかったんで悪いもいいもわからない

シン・俳句レッスン179

現代俳句 まさら俳句第十一回 「団塊世代に難解を聞く! 大井恒行対後藤章」 ゲスト:大井恒行 『豈』という前衛俳句の難解句を読むという特集。品切ればかりだ。図書館にあるのか?同人誌だからないのか?国会図書館に行けばあるかもしれない。 過激さを求めるという。 それほど難解でもないよな、「音だま」は言霊だろう。「ふ常世(エデン)」はルビと考えればよく 不常世だと思うのだが「ふ」を何ゆえひらがなにしたのか。「ふ」の音韻で「負」「歩」「麩」と様々な掛詞になるからではないか

シン・俳句レッスン177

現代俳句 「バナナ考」 『現代俳句2005年1月号』より西池冬扇『「アブラカタブラ・バナナ」、そして「花鳥諷詠」少々』が興味を引いた。バナナの俳句は、堀田季何『星貌』で興味を引いた。 この句は虚子の句。 虚子の句を意識して作られたのならその落ちたバナナは新興俳句だろうと勝手に深読みをしたのだ。そのバナナの皮に滑ったのが私である。虚子の句を評価したのは平畑静塔だという。最初は「全人間像」をかけた句という。新興俳句を蹴落とそうとしたのか?次に「無心のバナナ」という。こ

俳句雑誌を読むにも指標がないと面白くない

『俳句 2024年10月号』 「大解剖! 魔法の一音」 【総論】「一音に出来ること……今井 聖」では短詩と言われる俳句の中で効果的な一音の使い方(主に助詞だろうか)について述べているのだが、一音の言葉を使った俳句とか芭蕉の一音の句とか、多少意味がズレると思った。 そんな中で注目したのが井上弘美「置き換え不能の一音」。 一読ではわかりにくいが「とれど」は逆説の助詞で「~けれど」の意味だという。逆説は俳句には有効であり、ここでは「抱くほど」とリフレインっぽく逆説になってい

短歌と俳句の違いなのだろうか?

『短詩型文学論』岡井隆、金子兜太 俳人の金子兜太と歌人の岡井隆のそれぞれの論文だけど金子兜太は前衛的に岡井隆は伝統的にそれぞれ論じていた。岡井隆は音韻論なんで難しい。どこまで説明出来るか?こういうのは結社の企業秘密ということで師から弟子たちへ秘伝ということで伝授されるのかもしれない。 「調べ」 日本の詩歌は、「調べ」に起因するという。それは定型という音数律は、西欧や漢詩にある脚韻というものは、日本の詩には必要ないのではないのかという。それは日本語が子音と母音の二拍で成り

シン・俳句レッスン174

NHK俳句 楽しい句会。なんでこんなに楽しそうなのだろう。人選がいいのかな。特選にも納得がいく。能町みね子は上手いな。ユニークな視点なんだよな。 特選2並選2。「長すぎる」という言葉がいいと思った。これはフランスの詩人ルナールの「蛇長過ぎる」という詩からだという。 そういう不気味さが入っているのか。電信柱の影を見ているのか冬の日差しによって影がどこまでも伸びていく感じが、下を向いて歩いていた時にふと気づいて天を仰ぐような、「冬うらら」というひらがな書きにしたのもポイン

シン・俳句レッスン173

芭蕉の風景 小澤實『芭蕉の風景上』から。 芭蕉の句で誰もが知っているという、それだけで凄いのだが内容を吟味すると数々の説があって面白い。水の音は実際に聞くとしたら、かなり小さな音だという。芭蕉庵か近くの古池があり、そこから聞こえてきた音であるというのだが。蛙の飛び込む音が一音か多音かということも問題になって、小澤實は、俳句の性質として一音だというのだが。わたしはイメージしての水の音であって、古池をイメージしたあとに蛙の音もイメージしたものだと思っている。だから想像で俳

俳人から柳人への転向書か?

『川柳入門 表現のコツ50 新装改訂版 楽しくもっと上達できる』 川柳入門書は同じ著者の『今日から始める現代川柳入門』を読んでいたのを知ったのだけど、その本を読んで以降川柳はやってないので、あまり参考にならなかったのかと。俳句との違いで、俳句はものを詠み川柳は人を詠むというのがあったのだが、今は普通に俳句でも人を詠んでいる。ただ主体として「私」を出さない(一人称文学)であるより三人称なのかと思うことがあったが、それも違うようだ。具体的には俳句と川柳の境界はそんなにないように

俳句のいさらゐ ✥♮✥ 松尾芭蕉『奥の細道』その四十一。「桜より松は二木を三月越ㇱ」

桜より松は二木を三月越ㇱ 掛詞を使った俳句である。『奥の細道』は、掛詞を要所で使っているのを、この解釈シリーズ記事で述べて来た。  「草の戸 ( 徒 ) も住み ( 澄み ) 替わる世ぞ」  「剃捨て黒髪山に」  「涼しさやほの三日月   ( ほの見 ) 」  「蛤のふたみ ( ふた身、二見ヶ浦 ) 」 などがその例。芭蕉は、俳句を重層に構成する句法が掛詞と見ていたことになる。 表掲の俳句の句意はこうなる。  ■ 桜の季節 (=旅立ち ) から、この行脚において見たいと望

シン・俳句レッスン169

堀田季何『人類の午後』 この句なんかはまさに渡邊白泉の戦争俳句を想起させるものである。 「小米雪」は「粉雪」の意味だが、それが日本で降ることの意味を考えさせられる。「生れぬ子」は戦争被害を受けた地域での子供なのだろうか?その子が現れては消える雪との二物衝動。 「迷彩の馬」は軍人が乗る馬なのだろうか?それが桜と取り合わされるときに、馬も戦争で犠牲になったのにそのことはあまり語られない。 「正方形の聖菓」はクリスマスケーキなのか?またそれが四ツ切正方形という膠着技法の

小津夜景「フラワーズ・カンフー」を読む③

引き続き、Ⅲを読んでいきます。Ⅲの「天蓋に埋もれる家」「出アバラヤ記」「オンフルールの海の歌」は、それぞれ散文と句によって構成されているパート。本来ならば、散文の意味もあわせて引用するのが最適ですが、今回は句のみを鑑賞しています。 心に残った句 攝津幸彦賞準賞を受賞としたというだけあって、摂津的な季語のあり方(あまり季語っぽくない)や表現のあり方を感じます。 カタカナ語をひらがなで書くことによる浮遊感の生じ方と、漢字をひらがなで開いて書いたときに感じる浮遊感の生じ方が、そ