瀬戸風 凪

名画の面白い見方を探索の散歩人です。中でも北斎の「富嶽三十六景」連作の読み解きは、これまでの北斎の絵解きでは、最もサブカルチャー的と自負してます。 もうひとつのマストは、青木繁と明治近代洋画。ブラボー青木繁!の拍手を添えて、青木繁に問いかけています。どうぞその仲間になりませんか🌞

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  • 俳句のいさらゐ

    松尾芭蕉の俳句が、上質のエピグラム(寸鉄詩)であることを探ります。

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    読むほどに、こころの窪みに清涼のしずくを滴らせる詩を取りあげ、詩人の着想を読み解きます。

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詩のアルバム scene6 トレモロの花びら

    • 短歌アルバム scene5 佇みぬ

                             令和6年11月        

      • 俳句のいさらゐ ⪦⁜⪧ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十九。「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」

        芭蕉が金沢で詠んだ俳句を取り上げる。 ① 塚も動け我泣声は秋の風 この俳句は、芭蕉の金沢の門人一笑への追悼である。 そして、それに続くのが ② 秋涼し手毎にむけや瓜茄子 である。今回はこちらの俳句の解釈記事。 以下①②として表記する。 ひとつの疑問がある。 この両句に連続性があるのかないのか ということだ。②の前書きには、「ある草庵にいざなはれて」とあるだけで、読者には、背景はわからない。 ①の俳句が、金沢へ来て知った期待の門人一笑の若すぎる死を嘆くものであるのに対し、②

        • 三島由紀夫の文学 ━ 幻に立つ船

          上に引用した『金閣寺』の文章は、三島由紀夫が、船を比喩に用いた表現で最も詩文的彩が華やかで、読者を陶酔に誘うものであると思う。小林秀雄が三島との対談で、小説『金閣寺』は詩であり、金閣を焼いてからのちのことを書かないと小説にはならない、と述べているが、それは三島文学の、最も生き生きと輝く源泉がどこにあるかを語っていることでもある。現実の人間の交渉事を題材にした小説、たとえば『宴のあと』や『沈める滝』や『絹と明察』や『青の時代』などは、『金閣寺』『岬にての物語』『豊穣の海ー天人五

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          ワタクシ流☆絵解き館その266― 青木繁、ひそかに慕った(?)女性を描く。

          青木繁の大飛躍の年になった1904年(明治37年)に、青木繁は東京美術学校を卒業したが、その頃に描き、理解者であり支援者であった高島宇朗に渡った「おもかげ」という、あまり取り上げられることのない一枚の素描がある。手帖ほどの小さなサイズで、下に掲げた絵である。 「おもかげ」のモデルは、明治36年東京美術学校入学で、青木と同時期に学んでいたマリー・イーストレーキ。( 父がアメリカ人、母が日本人 ) 卒業後は、青木と同じく黒田清輝主催の白馬会に出品したが、画家としての活動は、ごく

          ワタクシ流☆絵解き館その266― 青木繁、ひそかに慕った(?)女性を描く。

          俳句のいさらゐ ◈∥◈ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十八。「文月や六日も常の夜には似ず」

          上の文は「文月や六日も常の夜には似ず」の前文である。 この俳句にとってこの前文は何の意味を為すのだろう、という感じがある。「奥の細道」に親しみ始めた頃、この俳句の意味がとれなくて、「暑湿の労に神をなやまし、病おこりて」という文が、俳句の中の「六日も」にかかっているのかと思った。つまり、六日間も「常の夜」とは違うそんな目にあっていたということなのかと。 しかしそれでは、愚痴を言っているだけのことで、何に感動した俳句なのかはわからない。解説書をしげしげとめくり、初めて六日が七夕

          俳句のいさらゐ ◈∥◈ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十八。「文月や六日も常の夜には似ず」

          俳句のいさらゐ ✣☼✣ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十七。「暫時 (しばらく) は滝に籠るや夏 (げ) の初」

          この俳句の源には、李白の著名な次の漢詩があるように感じたが、連想しやすいことなので、これはすでに研究者により言及されていることだろうと思い文献を探ってみたら、1972年 教育出版センター刊 仁志忠『芭蕉に影響した漢詩文』に、やはり記述されていた。他書にも記述があることだろう。 ともあれ現代文訳付きでその詩を示す。 仁志忠『芭蕉に影響した漢詩文』では、上に挙げた「廬山の瀑布を望む」の続く詩行にある 「仰 (あお) ぎ観 (み) れば勢い転 (うた) た雄なり 壯 (さかん)

          俳句のいさらゐ ✣☼✣ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十七。「暫時 (しばらく) は滝に籠るや夏 (げ) の初」

          祈りのうた② ー 悲しみ

          失った道満州からの引き揚げのさ中  十二の歳で喪った母親との 数少ない思い出を母は折にふれ私に話した 家族で満州へ渡る直前のこと  母親の実家で ― おかあちゃん ご飯にバッチイが入っとる と 幼かった母は 出された黒い麦飯をいやがって箸をつけず 母親をいたたまれなくさせたという話だ 戦況はもう日本に勝ち目のないのは明らかになっていた  ― 満州なんかへどうして行ったん? その言葉が引揚者には棘であるとも思わず 深慮なく人が母にそう問うのを耳にしてきた 当時8歳だった母に

          祈りのうた② ー 悲しみ

          ワタクシ流☆絵解き館その265・青木繁「わだつみのいろこの宮」は ◼ 恋の終焉を映す◼ 説を読む

          性愛を視点にした「わだつみのいろこの宮」の、松永伍一によるユニークな解釈を今回は紹介する。 1979年刊  日本放送出版協会 NHKブックス「青木繁 その愛と放浪」と1980年刊 有斐閣新書「近代美術の開拓者たち : わたしの愛する画家・彫刻家 1」に載る文章である。 やや長い引用だが、文意は明快だ。 🔳 松永伍一 ( まつなが ごいち )  1930年~2008年 詩人・著作家。代表的著作は、1971年「一揆論 情念の叛乱と回路」1974年「農民詩紀行 昭和史に刻む情念と

          ワタクシ流☆絵解き館その265・青木繁「わだつみのいろこの宮」は ◼ 恋の終焉を映す◼ 説を読む

          俳句のいさらゐ 巛⏅巛 芭蕉が『奥の細道』に載せなかった旅中吟③「小鯛さす柳涼しや海士(あま)がつま」

          この俳句も「曽良書留」に載り、『奥の細道』でははずされた。何処で詠んだ吟なのか、場所は特定されていないようだが、酒田から金沢への、日本海沿いの漁村集落であることは確かだ。 俳意は、こういう読みになるだろう。 ✪ 風流を意識しているわけもない漁師の営みである小魚の天日干しにおい    て、江戸の町暮らしの遊び人から見れば、鯛の赤と柳の緑の映し出す対       照の彩に、清涼の深い趣がある。その作業に余念のない漁師の女房のし       ぐさまでもが、涼やかであることよ。 ま

          俳句のいさらゐ 巛⏅巛 芭蕉が『奥の細道』に載せなかった旅中吟③「小鯛さす柳涼しや海士(あま)がつま」

          俳句のいさらゐ ◧:◧ 芭蕉が『奥の細道』に載せなかった旅中吟②「入あひのかねもきこへずはるのくれ」

          「曽良書留」にあり、『奥の細道』の前半部、室の八島を過ぎたあたりでの旅中吟とみなされている。室の八島を過ぎた日、三月二十九日 ( 旧暦 ) には鹿沼泊まり、と曽良の随行日記に記録されている。「光太寺」が宿泊した寺として伝えられているようだ。 当時、たそがれには鐘の音が響いてくるのが当然のことだったのに、それが聞けないといぶかしんだのか、それとも、歌に詠まれ続けて来た「入りあひのかね」の情緒を芭蕉は期待していたのに、それがなく、なおさらがっかりしていたのか。 「入りあひのかね

          俳句のいさらゐ ◧:◧ 芭蕉が『奥の細道』に載せなかった旅中吟②「入あひのかねもきこへずはるのくれ」

          俳句のいさらゐ ∵▧∵ 芭蕉が『奥の細道』に載せなかった旅中吟①「秣 (まぐさ) 負ふ人を枝折の夏野哉」

          芭蕉が『奥の細道』行脚の中で詠んでいながら、『奥の細道』には載せなかった俳句がいくつもある。選ばなかった俳句から、『奥の細道』の構成のしかたが見えてくるのではないだろうか。 「曽良書留」(曽良による奥の細道の旅中吟記録 ) より選んだその一首を今回取り上げる。 「秣 ( まぐさ ) 負ふ人を枝折の夏野哉」 那須野での吟。解説諸本によれば、この俳句は、黒羽城代 ( くろばねじょうだい ) 家老浄法寺図書 ( ずしょ ) 高勝への挨拶句だという。そうであろう。 「秣 ( まぐさ

          俳句のいさらゐ ∵▧∵ 芭蕉が『奥の細道』に載せなかった旅中吟①「秣 (まぐさ) 負ふ人を枝折の夏野哉」

          俳句のいさらゐ ∴★∴ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十六。「卯の花をかざしに関の晴着かな」(曽良)「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」(曽良)

          「卯の花をかざしに関の晴着かな」 この俳句で先ず思うのは、曽良自身がそうしているのではなく、芭蕉の様子を見て詠んだのではないかということだ。その理由を述べる。 これより前の日光で、曽良は 「剃捨て黒髪山に衣更」 と詠んでいる。つまり、『奥の細道』の曽良は僧形で、墨染の法衣をまとっているわけだ。剃り捨てているのだから、頭髪もない。 卯の花を折り取って頭にかざせば、墨染めの法衣も晴着になる、と曽良が自分の姿を写したと解釈すれば、自己を戯画化しているような諧謔味が先に立ってくる。

          俳句のいさらゐ ∴★∴ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十六。「卯の花をかざしに関の晴着かな」(曽良)「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」(曽良)

          俳句のいさらゐ ‹‹›◌‹‹› 松尾芭蕉『奥の細道』その三十五。「五月雨をあつめて早し最上川」

          この俳句からは、大きな自然の中に、自分は包容されていると畏敬する芭蕉の思いが浮かび上がって来る。この俳句が、朽ちない輝きを持つ要素はそこにあるだろう。 「五月雨をあつめて」という措辞の働きである。「あつめて」とは、主体を天とした表現である。いったいに、五月雨によって水かさが増したという着想には類例がある。しかし、雨が降ったから川の水が増えたと結果を示すのではなく、「あつめて」と、自然の中に宿る神の営みを思い、そこに視点を置いたところが芭蕉の独創である。散文に言い換えれば俳句

          俳句のいさらゐ ‹‹›◌‹‹› 松尾芭蕉『奥の細道』その三十五。「五月雨をあつめて早し最上川」

          俳句のいさらゐ *◻* 松尾芭蕉『奥の細道』その三十四。「草の戸も住替る代ぞひなの家」

                                             上の和歌では、すむは、住むであり澄むでもある掛詞。この「すむ」の掛け方は、和歌ではしばしば使われ、この掛かり方を意識するのが、「すむ」の出て来る歌の読み方であると言っていい。 芭蕉の「草の戸も住替る代ぞひなの家」の「住替る」も「澄み変はる」を掛けていると私は思う。そう考えれば「草の戸」は、自分の庵を卑下して言っただけでなく、「草案」とか「草稿」などと使うときの、完成されていないもの、粗々しいもの、という意味

          俳句のいさらゐ *◻* 松尾芭蕉『奥の細道』その三十四。「草の戸も住替る代ぞひなの家」

          詩の編み目ほどき⑰ 三好達治「菊」

          三好達治の第一詩集『測量船』所収の「菊」を今回取り上げる。 「北川冬彦君に」と副題にあるから、この詩は、詩友、北川冬彦に対して、告げたい思いを述べた詩であるが、北川冬彦には言わんとしていることが、具体的事情をもって浮かんで来るはずだから、友人相互の関係においてのみ理解できるように書いた性格の作品と考えるのは間違いだろう。 一説には北川冬彦の詩「絶望の歌」( 難解な詩なのでここでの解釈はしない ) への返しと見る意見もあるが、北川冬彦の詩作品の何かに触発された思索の一断片を、本

          詩の編み目ほどき⑰ 三好達治「菊」