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シン・俳句レッスン169




堀田季何『人類の午後』

戦争と戦争の間の朧かな 堀田季何

この句なんかはまさに渡邊白泉の戦争俳句を想起させるものである。

戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉

小米雪これは生れぬ子の匂い 堀田季何

「小米雪」は「粉雪」の意味だが、それが日本で降ることの意味を考えさせられる。「生れぬ子」は戦争被害を受けた地域での子供なのだろうか?その子が現れては消える雪との二物衝動。

迷彩の馬駆けめぐる桜かな 堀田季何

「迷彩の馬」は軍人が乗る馬なのだろうか?それが桜と取り合わされるときに、馬も戦争で犠牲になったのにそのことはあまり語られない。

正方形の聖菓四ツ切正方形 堀田季何

「正方形の聖菓」はクリスマスケーキなのか?またそれが四ツ切正方形という膠着技法のような句は、マトリョーシカみたいだが、戦争の暗喩なんだろうか?

雙六に勝つ夭折のごとく勝つ 堀田季何

「雙六」は「双六」のことらしいのだが、正月のゲームなのにきな臭い言い方なのは「夭折のごとく勝つ」というスローガンみたいな言葉だろうか?新年の季語に取り合わせた軍国主義の言葉。「夭折」は死ぬことだから、これは勝っても意味のないゲームだった。

以上が宇多喜代子が上げた俳句。

戦争と戦争の間の朧かな 堀田季何

は高野ツトムも上げていた。高野ツトムは三橋敏雄の句を連想したという。

戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄

この句のせいで安易な戦争句が増えたということなのだが、そういうことをお構いなしに実際に戦争は起きているのである。ただ日本では呑気に構えているだけなのかもしれない。

堀田季何の戦争のイメージの連作は、「どこでもドア」のようだと断言する。戦争俳句の連作の歴史が新興俳句の編み出した手法なのだという。

寶舟船頭をらず 常 とはに海 堀田季何

「寶舟(たからぶね)」の漢字がなかなか出てこなく苦労すると前回書いたのだが旧字を使うことの意味は、国家の常用漢字への抵抗だろうか。「宝船」の連句は日本の豊かさの象徴、それによってウランや石油といったものが運ばれてくるのだ。その欲望のシステムの中に戦争はあるのだが、それは連想されない。嫌いだ!ふりがなが欲しいよな。この句は高柳重信の多行俳句を連想させる。

蝶の胸堕す紙の上から強く 堀田季何

これは赤黄男の句の連想か。紙の上から蝶の句を詠むことは、イメージなのだがそのイメージ(戦争)から赤黄男の傑作句が生れたのである。

蝶墜ちて大音響の結氷期 富澤赤黄男

自選の解説動画があった。

歪つつしゃぼん玉デモ隊の上 堀田季何

これも上の句の連想句だろうか。

淫楽となるまで蠅逃ぐる音 堀田季何

「蠅追ひが村の者なら蠅も村の者(レガ族の諺)」のエピの連句なのだが死体に群がる蠅は一茶の蠅の句を連想させるのか?

囀れりわが ししを喰ひちらかして 堀田季何

宍は食用の肉なのだが、ここでは豚なのか?豚を屠殺するときの声を囀りと言っているのか?

猫轉がり人寝轉がる原爆忌 堀田季何

原爆忌が水俣の猫と重なってくるのは語り部の存在なのかな。堀田季何がそんな語り部に敬意を示しているのかもしれない。以上、高野ツトム選。

恩田侑布子が動画の句を上げていた。

斑蝶斑蝶斑蝶斑 堀田季何

ホーソンの「幸福とは蝶のやう」とのセッションであるという。エピグラフと二物衝動ということなのか?イメージの連想句なのでそうなのかもしれない。この口承は呪術的で曼荼羅絵図も連想させる。

陽炎の中にて幼女漏らしてゐる 堀田季何

それは恐怖から来る尿意かもしれない。恩田侑布子は郷愁を誘う性の目覚めだという。それは違うと思うな。

チアノーゼ色のペディキュア川床涼 堀田季何

「チアノーゼ色」は肺結核の血だろうか?「川床涼」は結核患者は療養生活のために避暑地などで療養する姿を連想する。「チアノーゼ」は酸欠状態に現れる症状で必ずしも肺結核を意味するものでもなく、作者がそうした色のペディキュアを選ぶという情景なのだという。この俳句の前に津村節子『白百合の崖−山川登美子・歌と恋』を読んだので結核患者とサナトリウムが重なった。

万緑を疾走する血の乾くまで 堀田季何

「万緑」の俳句は、中村草田男が有名。

万緑の中や吾子の歯生え初むる 堀田季何

そういう子供が戦争で逃げ去るイメージか?ジャングルを逃げまどう子供とか。

冒頭に戻る音盤盆踊 堀田季何

これはソ連で作られた肋骨レコードか?確かにすぐ針飛びしそうではある。
恩田侑布子の読みは面白い。作者が広島原爆で一族を殺されたイメージだという。深読みしすぎだと思うが。

人間を乗り継いでゆく神の旅 堀田季何

キリスト教の魂の入れ物みたいな感じか。神=紙とも繋がっているのかもしれない。恩田侑布子はドーキンスの遺伝子にたとえている。そこから「出雲」に飛ぶのか。そういうイメージは無かった。むしろこれはキリスト教だろう。

吾よりも高きに蠅や 五六億七千萬年ころな 後も 堀田季何

ルビによる異化効果か。蠅は生き残るのだろうか?五六億七千萬年は弥勒菩薩が悟りを開く時間だった。自然からの人間への逆襲と読む。ポストコロナ禍の秀句だという。以上が恩田侑布子選。

芭蕉の風景

小澤實『芭蕉の風景上』から。

実際に芭蕉の行った場所で芭蕉の発句を観賞する。紀行観賞文学と言えばいいのか、そのあとで自身の俳句を披講するという本。芭蕉句の観賞&紀行文&小澤實の俳句というように一粒で三度美味しいみたいな本なのか。

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉

『野ざらし紀行』でのことなのだが、深川からは富士はみえたんだろうか?たぶん富士山は富士近郊の県ではどこからでも見えたはずなのは、土地名に富士見台と残っているからだろうか?最近富士山を見ないのは車に乗らないからか?246沿いでも見れたような。富士を見なくても笑える芭蕉の余裕か。

246下っていけば富士見かな 宿仮

猿を聞人捨子に秋の風いかに 芭蕉

『野ざらし紀行』

「猿を聞人」は杜甫の漢詩から。断腸の思いということだった。猿の鳴き声は悲痛なのだ。そこに捨子を思う芭蕉だった。堀田季何の句にあったような。ちょっと見つからなかった。

アフガンの谷間捨子の猿の声 宿仮

こんな感じか。「飢えた子は詩が救えるか」などくだらない質問だと思う。なんでも詩になるのだ。それを受け取るものがいるかいないかの違いである。

道のべの木槿は馬にくはれけり 芭蕉

『野ざらし紀行』

諸六は『歴代滑稽伝』で芭蕉はこの句で談林俳句を超えたという。写生という自然観察の中に滑稽さを見出している点か。しかし、正岡子規は「この句は文学上最下等に位する者なり」とも言っている。「出る杭は打たれる」式の諺句だというのだった。小澤實が名句であると考える所以はその変化を詠んでいるからだという。

芭蕉句や批評にくはれ名句かな 宿仮

僧朝顔 幾死いくしに かへる のりの松 芭蕉

『野ざらし紀行』

芭蕉が當麻寺(當麻曼陀羅)を尋ねたが寺の芸術品には触れないで自然の朝顔と松を詠んだ句。朝顔に命短い僧が幾代も変転していくのに対して松は仏法のように不変だと対句的に詠んだという。なかなか高度な俳句だ。説明書きに松は「牛を隠す」とあり、それは漢詩の『荘子』から来ている言葉だという。つまり「実用に役に立たない木は巨木になる」ということらしいのだが、「無用の用」を説くとか仏教的な句なのだという。當麻寺と言えば折口信夫『死者の書』だった。

無用松 かみに打たれて曼荼羅け 宿仮

今は雷が落ちて、その松は根っこの焼き後しか残ってないらしい。

露とくとく試みに浮世すゝがばや 芭蕉

『野ざらし紀行』

吉野の西行庵を尋ねたときに詠んだ句。湧き水が「とくとく」と湧き上がるのだろうか、「とくとく」という音がいいという。西行の和歌にも、

とくとくと落つる岩間の苔清水汲み干すほもなき住居かな 西行

とあるらしが、これは西行の歌ではないらしい。芭蕉も知っていてトボけたとか。

偽西行歌をとくとく騙された 宿仮





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