いつから夢を追うことを忘れたんだろう|ロスト・キング 500年越しの運命
9月22日に公開された映画「ロスト・キング 500年越しの運命」を観てきました。
シェイクスピアが描いた邪悪な王「リチャード三世」の遺骨を見つけるアマチュア歴史家女性の実話をもとにしたストーリ―。
病を理由に職場でも思ったようにいかず、苦悩する主人公の世界に突如として現れたリチャード三世。自身の境遇とリチャード三世を重ね、彼をもっと知りたい、本当の姿をみんなにも知ってほしい、そんな思いで始めた遺骨探し。周囲の様々な人を巻き込みながら、彼女の目指す先は――みたいなお話。
主人公に、過去の自分と今の自分がとてつもなく重なって見えた。
彼について知りたい、もっと知りたい。
リチャード三世についての文献を読み漁り、講演会に足しげく通い、情報交換を盛んに行う……
学生時代の私を見ているようで、なんだか懐かしくなった。
小学生のころ、親に連れられて行った歴史公園。公園内に復元された昔の墓。暗くて狭い入口から進んだ奥壁に広がる鮮やかな色彩。昔の人は、何を思ってこの絵を描いたんだろう、どんな思いで、故人を見送ったんだろう、星空を見上げて、何を考えていたんだろう。純粋に抱いた思いを胸に、考古学への道を進み始めた。
同じ志を持つ仲間たちと、発掘して、文献を漁って、遺跡をまわって……
夜遅くまで研究室にこもって、討論会をしながら、何千年も前の人々に思いを馳せる。学生が寄り集まって得られる答えなんてたかが知れてたけど、それでもただ楽しかった。
その後、結局様々な理由で考古学の道を諦めてしまった。今は全く違う仕事について、考古学とは無縁の生活を送っている。
この映画を見て、がむしゃらに自分の好きなことを追い続けていたあの頃を思い出した。仕事してたって、もう若くなくたって、専門家じゃなくったって、自分の“好き”を追いかけるのは、すごくキラキラしてて、眩しかった。
何で、諦めてたんだろう。
全然関係ない仕事してたって、アラサーになってたって、学び続けることは誰にも止める権利なんてない。専門家になれなくたって、自分なりに学び続ければいいじゃない。
卒業以来、ほとんど開いてなかった考古学の本たち。一冊を手に取って、パラパラ眺めてみる。
……やっぱり考古学って、面白い!
※ここから余談です(映画のネタバレを含みます)
隣で見ていた老婦人が横に座っているご主人に
「大学の先生は、冷たかったわね」
って苦笑いしながら言っていて。
何とか遺骨を発券したい主人公は、大学所属の考古学者に助けを求める。自身で調べたデータを基に、リチャード三世の遺骨探しを手伝ってほしいと。
表面上は理解を示したように見せたが、主人公が帰った後、彼女が置いて行った資料に目もくれず投げ捨てる。
傍から見れば、冷たく見えて当然だ。けれど、何とも言えぬ苦さが残った。
大学生の頃、研究室の教授に頼まれ週に1回郵便整理の仕訳と整理を手伝っていた。教授は顔が広く、毎週たくさんの講演依頼や研究会参加依頼が届いていた。それらの手紙の中には、所謂アマチュア歴史家個人からの手紙も多く含まれていた。
先行研究のすべてを無視し、根拠のない独自の論を熱弁する人、発掘中の遺構について勝手な考察をする人、調査報告書について書いてあることは自分の考えと違う!と憤慨する人……
アマチュア歴史家の中には、自分の考察が何よりも正しい、と信じている人がいる。教授はこれらの手紙にすべて返事を書いていた。あたりさわりのない内容で、毎回同じような内容だった。
この映画で主人公は、リチャード三世は先行研究で語られたような残虐な王ではない、という結論を求めて奔走する。あの頃、教授に手紙を書いた人と同じように。先行研究による”常識”をひっくり返すために。そして見事に、彼女はやってみせた。歴史はこの物語のように、ひっくり返ることもある。
けれど、すべての歴史がそういうわけではない。
現在の歴史学、考古学があるのは、様々な歴史家、考古学者たちが築いてきた研究の礎があるからだということは、忘れないでおきたい。