【民主主義とは何か】宇野重規ーこおるかもの読書ノートVol.05
こんにちは、こおるかもです。
さて前回は、小論を交えて、公共哲学への入り口を論じてみました。
ここからいきなり哲学の話を深掘りしていくのは、ちょっと味が悪いので、もう少しとっかかりやすいテーマとして、「民主主義」ということを取り上げて、そこから徐々に政治哲学的なテーマから攻めていこう、と思いました。
というわけで、今回取り上げる書籍はこちらです。
はい、そのまんまのタイトルですね。民主主義とは何かについて、日本ではその道の論客と呼ばれているらしい宇野重規先生から学んでいきたいと思います。
いつものように、ぼくの読書ノートは、基本的に本の詳細な要約を行うもので、そこに個人的な意見を挟みません。ただし今回は、最初にぼくの結論を述べておきたいと思います。
それは、「なんだ、民主主義って、大したことないな」ということです。
というのは、決して民主主義を真っ向から否定するわけではないのですが、多くの人(ぼくも含め)が考えているほど、民主主義って普遍的に正しいものでもないし、これしかない!と決めつけて擁護する必要のあるものでもない、ということです。
この著者の宇野さんは、「私は民主主義を信じる」と公言しており、民主主義に対して崇高な価値を置いているようですが、残念ながら、この本を読んで、私はとてもそうは思えなかったです。
みなさんがそのことに共感するかは別問題ですが、ぼくの考えがこの本の通りだと思われてしまうのも困るので、今回は先に持論を述べました。
では、前置きが長くなりましたが、以下、ぼくの読書ノートを少し読みやすくアレンジしたものを、公開いたします。
それではいってみましょう!
民主主義の論点
A
民主主義とは多数決だ
民主主義とは少数派の意見の尊重だ
ウィンストンチャーチル:民主主義とは、頭をかち割る代わりに、頭数を数えることだ
B
民主主義とは選挙だ
民主主義とは課題を自分たちで解決をすることだ
ジャン=ジャック・ルソー:イギリス人が自由なのは選挙の時だけだ。選挙が終われば奴隷に戻る。
C
民主主義とは国の制度だ
民主主義とは理念だ
内田樹:安倍政権は民主政という"制度"を利用しているだけである。SEALsの若者が怒っているのは、その”理念”が蔑ろにされていることに対してだ。
民主主義の4つの危機
ポピュリズムの台頭(フェイクニュース、大衆迎合主義、エコーチェンバーなど)
独裁指導者の台頭(フランシス・フクヤマによる民主主義の最終勝利宣言は誤りであった)
第四次産業革命(経済格差、エレファントカーブ)
コロナ危機(自由の抑制、行政権の強権化)
歴史的検討
古代ギリシャでの「誕生」
近代ヨーロッパへの「継承」と自由主義との「結合」
20世紀における「実現」
キーワードは「参加と責任のシステム」としての民主主義。
ギリシャでの「誕生」
民主主義の語源:democracy, ギリシャ語でdemokratia。これは人民(demo)の支配(kratos)という意味。
実は世界各地で自治はあった。起源をギリシャだと特定することは乱暴である。
それでもギリシャを強調する理由は、それが「徹底」されていたから。
官僚も軍人もいない一般市民が、国政を担い、武器を取って戦った。しかも宗教的支配もなかった。
最大都市アテネでは4~5万人で直接民主主義をしていた。
しかし、奴隷がいて、女性子供を除いた裕福な男性のみが参政していた。
つまり、自由で独立していたということ。
政治とは、人間が公共の場に集まればなんでも政治というものではなく、「自由」と「独立」を持つ人々による自己統治というのが原義として相応しい。
アテナイの民主主義
旧来の血族による4部族制から、地縁に基づく10部族制に。
この行政区分(デーモス)によって、上流貴族の特権、影響力が弱まった。
それによって、貧困に喘ぐ中小農民の声が反映されるようになった。
デマゴーグ
ギリシャ時代から、ポピュリズムはあった。
大袈裟な振る舞いや言動で民衆を惹きつけること。修辞学が重視されたのもこういった理由から。
デマゴーグの結果として、シチリア遠征での大敗などが引き起こされたとされる。
哲学者の態度
アリストテレスは民主主義に対して批判的だった。理想的なポリスの人数は、「一目で全体が見渡せるくらい」として、5000人程度が限界であるとした。
またこの時期に哲学者によって、各支配形態とその腐敗状態が類型化された。
一人の支配(君主政→僭主政)
少数の支配(貴族政→寡頭政)
多数の支配(民主政→衆愚政)。
プラトンはより一層批判的だった。師であるソクラテスの多数決による死刑執行が影響。多数だから正しいとは限らない。だとすれば少数の人を道徳的にすべき、と考えた。
古代ローマの共和政
republic, commonwelth, つまり、民主政が「多数者の利益」を目指すとすれば、共和政は「公共の利益」を目指す。
民主政の場合、少数者の利益が軽んじられる場合があったり、党派争いが起こりがちであった。
そのため、近代まで、共和政がポジティブに、民主政は否定的な意味が付き纏うこととなった。(アメリカ独立の項を参照)
ヨーロッパ・アメリカへの「継承」
イタリア
11世紀頃から都市が発展。都市貴族が封建領主と戦い自治を獲得。やがて平民が台頭し、民衆という階層を形成(=コムーネ)。
このような流れ(君主、貴族、民衆)は人類史において普遍的である。
しかしのちにコムーネは自己解体。
議会制の誕生
なぜコムーネが解体したか。それは、集権を目指す国家とそれに抵抗する社会集団の要求のせめぎあいにおける微妙な均衡を保つのがとても困難だから。
これを、ジェイムズ・ロビンソンは「狭い回廊」と表現した。
ではこの「狭い回廊」をくぐり抜けたのはどこか。17~18世紀の英仏(名誉革命、フランス革命)である。
背景にある政治思想
トマス・ホッブズ:無秩序を克服するには強い国家(リヴァイアサン)が必要⇨上からの国家
ジョン・ロック:リヴァイアサンには制約が必要、個人の所有権など、個人の権利が守られるべき⇨下からの国家
これらの政治思想に支えられ、国家と社会集団の均衡が成立し、議会制民主政治が起き、経済も発展した。
アメリカ独立
「生命・自由・幸福の追求」→ジョンロックの影響が強い。
民主党:民衆による政治参加、多数者の利益→大きな政府
共和党:エリートによる統治、公共の利益→小さな政府
「建国の父」と呼ばれる人たちは共和主義的であり、代議制の議会政治は、本来は共和主義的制度(公共の利益を目指す政治)であった。
しかし現代では、代議制民主主義が、イコール民主主義とされるようになってしまっている。
フランス革命
170年ぶりに開かれた三部会で平民の代表が「国民議会」を宣言したことが発端。
人間の平等がテーマとなる。
ちなみに、フランス革命はジャン・ジャック・ルソーの思想が原因とされたという議論があるが、実際には、革命で主導権を握った急進派が、新たな共和的な体制原理を求めるためにルソーを利用したというのが正しい見方であろう。
ルソーの思想
私的所有権が不平等を産むとして批判。
相互に自由で平等な市民による「一般意志」を実現する社会契約こそが国家の始まりであるべきと論じた。
そして一般意志に同意する「同質的な」構成員による「単一不可分の共和国」こそが理想だと論じた。
しかし、一般意志とは何か?どこから出てくるのか?といった議論は不完全なままであった。
ルソーの語る「同質的な市民」論は、悪質な同調圧力、そして全体主義につながる理論だという批判もある。
自由主義との「結合」
近代までに、民主主義といえば議会制、という常識ができた。
そこで、現代では、議論の焦点はいかに議会制を民主的に運用するか、代表機能を如何に向上するか、というところに移動した。
デイビット・ヒューム「党派論」
党派制は弊害があるが、その発生はしょうがない、と論じる。
党派には種類があり、「利害」「原理」「愛情」に基づくものがある。
このうち、意外なことに、利害に基づくものが最も害が少なくて良い、と論じた。
ピエール・ロザンヴァロン
議会や党派制が民主主義の中心にあることは間違いないが、人々の生活に大きな影響を持つようになったのはむしろ政権による「執行権=行政権」ではないか。
歴史的に見て、行政権は強化される一方である。
バンジャマン・コンスタン
主権者が誰であるかよりも、その主権の範囲が問題なのである。行政権が強くなり、自由が侵害されることがある。
つまり、自由主義と民主主義は、両立し得ない場合がある。
以降の自由主義と民主主義の緊張関係を論じる土台となる。
トクヴィル
民主主義の定式化
制度としての民主主義:連邦よりも州、州よりもコミュニティが先行し、自治をする制度
歴史の趨勢としての民主主義:差別や理不尽な制度は、いずれ破壊されていくだろう
生き方・考え方としての民主主義:歴史や伝統(こうあるべき)よりも、直接的、効率的で、「今・ここ」で正しい生き方が推進される。
政党や派閥の問題も、煎じ詰めれば個人的コミュニティによる結社の延長であり、良いもの。身近な問題から結社し、社会に対して意見を発することが大事である。
ジョンスチュアートミル
修正功利主義=幸福の質的差異を考慮に入れて、それを最大化する思想。
自由論:危害原理=権力の行使は、他者の自由を侵害することを防止する場合のみ。つまり、他者に迷惑をかけなければ、どんな種類の幸福を自由に追求しても良い、という強い自由擁護。(=愚行権)
さらに、議会制民主主義が最善であると論じる。なぜなら、それが市民を政治に参加させ、能力を向上させるから。君主制だと、民衆は馬鹿になる。
また、少数派の意見の重要性を強調した。しかしその理由は、少数派の利害も守ろう、というものではなく、未来においてそれが正しかったと明らかにされる場合があるから、ということ。あくまで正しさの基準は常にひとつであり、幸福の最大化である。
民主主義の「実現」
19~20世紀
1890年、日本で初めての帝国議会開催
選挙権の拡大、君主制国家の大幅な減少が世界ですすむ。
マックス・ヴェーバー
国家とは、「特定の領域の内部」で、「正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体」と定義した。
ヴェーバーは、ビスマルクの負の遺産、つまり無力な議会と、政治教育のない市民を批判し、強い執行権をもつ大統領制を支持した。
つまり、統治の役割として、立法よりも執行権であることを指摘した。
しかしそれがかえって、ナチスに利用されることになってしまった。
カール・シュミット
例外状態:通常の憲法や法秩序が機能しない時。その例外状態で統治するものが真の主権者であると論じた。背景にドイツの大統領のもつ国家緊急権がある。
シュミットはこれをもとに、民主主義と自由主義を(極端に)区別しようとした。
民主主義:同質性が本質。異質なものは排除される。ルソーの契約論=一般意志。それを確認する手段としての「喝采」
自由主義:討論が本質。これは議会主義に結実する。
つまり、議会主義は自由主義であり、民主主義はむしろ独裁的、全体主義的であるということ。
ヨーゼフ・シュンペーター
「古典的民主主義」の否定。
古典的民主主義とは、人間が自らの問題を解決すべく、代表者を通じて討論し決定すること。
そこには、構成員が皆合意するような一義的な「公共の利益」が存在するという前提がある。
しかし、今やそのようなものは存在しない。人々は政治の問題に感情的になる。
「民主主義が正しい」というのは思い込みである
エリート民主主義論
シュンペーターにとって、民主主義の大事な点は「代表を選ぶこと」である。
大衆が各問題について正しい判断ができるとは限らない(ref. エーリッヒフロム:自由からの逃走)
これによれば、有権者は主権者というよりも選挙権の消費者という理解に近い。
ハンナ・アーレント
労働・仕事・活動の区別。ギリシャ時代の労働から着想を得たもの。
活動によって、公共の場での政治への参加が生まれるとして、公共の場での議論の重要性が再度見直される。
経済成長や戦争によって「取り残された人々(モッブ)」によって、もはや議会が憎しみの対象になっている。
ここから、現代の新たな政治哲学が始まる。
ジョン・ロールズ
功利主義に対する批判。つまり、幸福の質や量の問題ではなく、個人の個性と多様性の中で、いかにして正義のルールを承認することができるかを問題にした。
正義論によれば、トマスホッブス以来の、社会契約論における「自然状態」を「原初状態」として、そこでは人間は無知のベールに覆われているとした。そこではどのような原理が承認可能か。
第一原理:自由を平等に保証すること
第二原理:格差は許容されるが、生まれる時点では平等かつ、インセンティブである限りにおいて許容される(格差原理)
⇨これにより、功利主義ほど格差を認めずに、かつ、社会主義ほどインセンティブのない社会となることを防ぐことができる
さらにロールズは、最低限の社会保障は認めるものの、事後的な再分配を否定し、富と所有を分配所有とする「富と財産の民主主義」を唱えた。
日本の民主主義
出発点
五箇条の御誓文:福井藩士由利公正「万機公論に決すべし」
この背景には横井小楠の「公論」があったとされる。
日本の議会制成立を外国からの圧力と捉えるのは誤りで、明治維新の精神が内側から作ったものと理解すべき。
その後、伊藤博文と桂太郎によって二大政党制が始まる。
しかしすぐに5.15事件によって犬養毅首相が射殺され、以後軍主導の政治体制となる。
戦後民主主義
最大の理論家は丸山眞男。
(以降は一般的な教科書的内容のため省略)
いずれにせよ、現代の議会制民主主義への信頼の低下は顕著であり、選挙年齢を引き下げても、うまくいっていない。
こおるかも的まとめと感想
ギリシャ時代の民主主義は、「直接民主主義」であることと、「十分な教育を受け、経済的に自由である」、という点が、現代の民主主義とは大きく異なる。現代では、議会制民主主義であることと、政治的課題の複雑化・高度化により、選挙権のある人が必ずしも十分な学識を持っているとは限らない。
さらに、シュンペーターが指摘したように、「構成員が皆合意するような一義的な「公共の利益」が存在するという前提」が、現代では通用しない。
これらの差異を考慮すると、現代の民主主義をギリシャ時代と同様の理由で擁護することは不可能のように思う。
そのため、民主主義を一つの意味で括ってしまうのではなく、多様な民主主義が歴史上、そして思考実験上ありうるということが大事である。
例えば各論客が指摘しているような、「公開性」「参加における主体性・当事者意識」「判断に伴う責任」などの軸を立てて、それぞれをどの程度認め、どう実現可能な制度に落とし込むか、など、論点はたくさんあり、普遍的に正しい民主主義などありえない。
そして、これはジャンジャックルソーが「社会契約論」で述べていることですが、「」
もしも神々からなる人民であれば、この民は民主政を選択するであろう。
これほどに完璧な政体は人間には相応しくない。
というわけで、いかがでしたでしょうか?
最後に、ジャンジャックルソーが「社会契約論」で述べていることを引用したいと思います。
この発言が個人的には一番、民主主義の本質をとらえていると思います。つまり、民主主義を信じる、というのは人間が神のように完全にふるまえることを信じているのと同義だということです。これは典型的なヒューマニズムです。もちろん、僕は絶対にそんな風には思えない、人間はどこまでいってもある程度利己的ですし、不完全だと思っています。
また、このことは、「民主政」を議論することは、突き詰めていくとそのひとの人間観を問い直すことにつながる、ということです。これが、政治哲学の面白いところです。
次回は、もう少し民主主義について深堀していくため、マイケルサンデルの「民主政の不満」を取り上げたいと思っていますので、こちらもご期待ください。
それでは、また。