居合わせるのか、たどり着くのか
絶対に感想なんて書くまい、と決めてこの本を手に取った。
くどうれいんさんの小説「氷柱の声」だ。
先日紫波町図書館で開催されたトークイベントに参加したことで、それが期待以上の満足度だったからこそ、私は明らかに避けていた。
まだ読んでいない彼女の作品を次々と読んでいったら、イベントで本人にお会いしたからと急に親近感を覚えてファン気取りしているミーハーみたいじゃないか、と私のこじらせた天邪鬼がささやく。
それでも、何か導かれたような感じがして、座り読みしていいソファのあるいつもの本屋でこっそりと手に取った。
結果、禁忌を破ってでもここに綴らざるを得ない気持ちになったのだ。
物語は、東日本大震災で「目に見えた被害を受けなかった」主人公の葛藤と、そんな彼女が「震災」に何らかの因果を持つ登場人物たちと交わり合う日常を淡々と描いている。
私は「共感」や「感情移入」といったありふれた言葉にはなりきらない、それでも確かに自分の中の何かが呼び起こされる感覚とともに込み上げてくるものを、絶対に零すまいとして膝から本を持ちあげた。
あとがきの、
「被災のことを考えたり見たり聞いたりすると涙が出る。わたしは自分のその涙がいやだった。」
という一説にはっとした。
岩手県に移住した最初の年である2017年の夏に陸前高田を訪れ、奇跡の一本松を前にして泣き崩れてしまったことを思い出した。
その時の感情は自分でも受け止めきれなくて、とても言葉になんかできなくて、同時に、何かに対してひどく申し訳ないことをしているように感じた。
「私なんか」が、涙を零してしまった事実に罪の意識さえ覚えて、誰にも打ち明けられないと思った。
今もこうして綴ってよいものか分からないけれど、作中の「伊智花」なら受け取ってくれるかもしれないと思い、私信として書いてみる。それを免罪符とさせてください。
あの日、私は卒業式を終えた高校3年生で、入学が決まった大学の合格発表の翌日で、実家にいた。
同級生の友達と二人でリビングのテーブルにつき、卒業旅行のつもりだったディズニーランド行きの計画を練っていたちょうどその時、揺れが来た。
茨城県の中でも内陸部で地盤が固い地域だったからか、そこまで震度は高くなかったしその後の影響は少なかったけれど、当時の自分史上最大の揺れだったと思う。リビングの大きなテーブルに友達と二人で潜り込んだ時は怖かった。
揺れが収まって停電したと分かり、オール電化の我が家では何もできないので友達を家に帰した。
2階の自室に入ると、固定していなかったものが落下して散らばっていたほか、重くて一人では持ちあがらない勉強机が大きく移動していたけれど、それだけだった。停電も断水も、その後数日で復旧した。
数日ぶりに点けたテレビで被災地の映像を見たときは、とてもとても信じられなかった。そして、どう頑張っても他人事だった。
それから大学の入学手続きが延期され、何にもすることがなくなって、このまま社会が止まってしまったらどうしよう、せっかく死ぬ気で受験勉強したのに大学が始まらなかったらどうしよう、と自分本位に思って、そんな自分を恥じた。
それでも、ただただ不安だった。
被災していないのに、自分の不安で精一杯だった。
自転車で行ける場所に、スポーツの大会をするような大きめの体育館があるのだが、そこに福島から避難してきた被災者が寝泊まりしているという情報が入ったのはそんな時だった。
所属していたボーイスカウトの仲間を誘って、毎日集まってくる大量の物資の仕分けと配給、避難家族のこどもたちの遊び相手になるボランティアへ通った。
自分たちにできることがあって、本当に救われた。誰かの役に立つ、みたいなことじゃなく、先の見えない不安を紛らわせるために、自分のために、通っていたのだと思う。
4月になり、入学式が中止になったまま大学が始まると、震災なんてまるでなかったかのように、日常が押し寄せては過ぎ去っていった。
たまに「被災地ボランティア」という選択肢が頭によぎっては、お金がないから、時間がないから、と理由をつけて選ばなかった。実際はただ怖かっただけかもしれない。
当事者でもない自分が、今更思い出したように被災地に行ったところで、どんな顔していいか分からない。その後ろめたさを認めたくなくて、足を運べなかった。
2013年に弟が仙台の大学に進学し、引っ越しの手伝いのついでに、意を決して「被災地を自分の目で見る」ために石巻を訪れたけれど、その行動のおこがましさに気づいてしまって何も言葉にできなかった。
その後就職した私は、新入社員研修を終えた最初の配属先が偶然にも仙台となり、2016年の3月11日を仙台パルコで迎えた。
その時が来ると、館内放送で黙祷を案内する。私の役目は、その20秒間に不測の事態が起きないよう、目を閉じずに館内を注視するという仕事だった。
お客様も、ショップスタッフも、そこに居合わせたすべての人が静かに手を合わせて、思い思い祈りをささげているようだった。
それを見つめながら、内心ほっとした自分がいた。
当事者でない自分にも役割が与えられたこと。
震災が自分ごとである人たちとの温度差を実感したこと。
不謹慎かもしれないが、東北に暮らし始めて余計に感じていた後ろめたさを、「後ろめたさ」だと言葉にできるような気がしたのだった。
2017年から地域おこし協力隊として岩手の内陸部である紫波町に移住して、岩手県内でも沿岸と内陸で震災に対する温度差があることを知った。
東北の「移住者」と呼ばれる人たちの多くが、震災ボランティアの延長で起業したり、震災をきっかけに人生観が変わったり、何かしら震災を自分ごとにしていることも知った。
震災を語る人も、語らない人も、語れない人もいることを知った。
これだけつらつらと書き綴っておいて、それでもなお、私は「語れない」と思う。
どうしたって、自分ごとにはなりきらない。
それでいい、と思った時期もあったけれど、今は、いいとか悪いとかじゃない、と思っている。
今年の夏、初めて「被災地ボランティア」に参加した。秋田県五城目町の大雨災害だった。
大切な人たちがたくさんいる大切な場所が大変なことになっていて、一方自分の目の前には投げ出せない大切な仕事があって、すぐには駆け付けられなくて、とてもとても葛藤した。
今更、と思いながら、それでも、と思って現地に向かうことにした。
それが正解だったのか分からないけれど、賛否両論なのかもしれないけど、紫波町の仲間たちが物資を集めるのを手伝ってくれたり、現地で大切な人たちに「顔が見られただけでも嬉しい」と言ってもらったりして、ほんの少しでもプラスの感情になれたことを、受け止めようと思った。
さらに言えば今、こどもたちや、子育てをしている人たちや、学生たちと関わる中で、様々な「しんどさ」、「つらさ」や「生きづらさ」を目の当たりにすることがある。
その人のしんどさは、どうしたってその人のもので、どれだけ見聞きしても、私のものにはならない。
話を聞きながら、知らぬ間に自分の価値観で評価してしまっていることに気づき、狼狽する。
しんどかった時の私が、そのしんどさを奪われたくなかったことを思い出す。
私にとっての「震災」は、そんな誰かのしんどさとの距離感を、教えてくれるものなのかもしれないな。
その誰かが、一時しのぎでもいいから、その時点で納得できるようにそのしんどさと向き合ったり、向き合わなかったりできますように。
それを目撃している私は、それを目撃しているというただそれだけの意味にたどり着くことを、自分ごとにするしかないのだと思う。
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