すずりくん
青柳 貴史 著 / 中川 学 絵
文房四宝
小学生の頃、書道の授業で、この言葉を
聞いた記憶が全く無い。
忘れただけかもしれないけれど…。
いわゆる、"書道教室"というところには、
確か小学2、3年生くらいの頃だったと思うが、
「女の子は字が綺麗でなくちゃ!」と、母に
言われて何となく通わされていた。
最初は、ペン字だったが、途中から書も習うようになった。
習い事というよりは、通ってくる同じ年頃の子たちと会って、おしゃべりしながら過ごす時間が楽しかった。そうそう!当時、香り付きのペンや
お菓子の形をした消しゴムなんかが流行っていて、一度、クッキーの形の甘い匂い付きの消しゴムを悪戯して先生に渡したら、パクっ!と口に!
酷く叱られた事があった…。
確か引っ越しや何かの事情で1、2年ほどで辞て、以後、引っ越し先で特に別の教室に通うでもなく過ごしていた。
学校の授業では、ひたすら課題の文字をお手本通りに真似て書くことをしていた。
どうすれば、お手本通りの形を生み出せるか?
筆使いや運び方などを細かく指導されたかというとそうでもなく、不思議とどんな授業内容だったか、ほとんど覚えていない。
唯一、強烈に残っているイメージは、最後に小筆で自分の名前を書くのがすごく苦手だったこと。
どうでもいい話!
さて、文房四宝の話。
筆、墨、紙、そして、硯。
中国の文人の文房趣味とのこと。
書く事を極めた人たちが、宝としていたもの。
そう言えば、私もよく分かって無いな…。
自分なりの書を目指していながら、何一つ、真剣に知ろうとしていなかったなと反省。
そんなタイミングで、墨や硯についての事情が不思議ともたらされた。自ら調べようと躍起になっていた訳ではなかったのに、だ。
生まれて初めて知った、
"製硯師"(せいけんし)
という言葉。
https://youtu.be/ysOJdZip-qU
なんとなく、イメージはできたが、どんな仕事か知って、納得。自ら山に赴き、自然の中に身を任せながら、地球の体の一部である石を切り出す。
磨き"上げる"まではせずに、なんというか、自然の命や声がしっかり届くように感謝しながら人の手に、心に繋がるようにする。
雨粒がおちてくるように、静かに腑に落ちた。
硯は、4つの中でも美術品としての価値も高いが、
私は、使う人と自然を繋ぐ扉のように感じる。
墨も紙も筆も。
自然からいただいたものを人の手を加えて
丁寧に継いでいくもの。
効率や生産性をよしとして、便利になった今。
四つの宝が、いかほどの時間と想いを重ねて
形作られているのか?
どうやって自分たちの手に渡るのか。
改めて向き合うと、墨を擦る指、手、腕、
匂いを感じながら、ゆっくりと深呼吸し、
突き動かされるまま筆を上げ、無の紙に、
背筋を天に引き上げて対峙する。
その動きひとつひとつが全く違ってくる。
ふと気になって、今の小学校では、書の授業はどんなふうになっているのか?"学習指導要領"を調べてみた。"書写"となっていた。内容を読むと、やはり、お手本の字のように美しく書く事を重視した内容だった。
"書くこと"を大切なことに位置付けながらも、限られた時間や環境に則して、水書という、墨を使わない方法も導入されていた。
仕方ないことかもしれないが、今だからこそ、
墨を硯で擦る指に伝わる感触、
ゆっくりと立ちのぼってくる、
何とも表現し難い、ほのかな香り。
筆先にスーッと引き上げられる墨の動きと重み。
紙に筆を合わせた時の白と玄(くろ)のせめぎ合い。
…こんなに素晴らしい体験を一度でもいいので、
味わって感じてもらいたいなと願う。
そして、墨。
これもまた、必然の流れか、自分で作る体験という素晴らしい取り組みをされている方を知った。
学校の授業で取り入れたところもある。
まだ私も経験していないので、こちらは体験してから改めて書きたいと思う。
文字を描く。
尊さとありがたさを日々、感じている。