21 “人生”という名の一枚の絵と「霊性」について
ビジョンを視たりアカシックにアクセスすることは『“人生”という名の一枚の絵』の一部を垣間見ているのだと私は思ってる。その絵は生まれる前から完成してるけど、いまは未だ見えない。
いわゆる博物館に展示されているキャンバスに描かれた平面的な絵とかではなくて、もっと立体的というか、もっと多次元的な構造の“絵”だと思ってる。
私が子どもの頃から視てきた夢やビジョンは、その一部を視たに過ぎないのだと思う。だから結局“いま”を楽しんで、一生懸命に生きるんだ✊。
私は一部が視えるだけだけど、ぜんぶ視える人もいるんだろうなと思う。さらに他人の“絵”が視える人も勿論いる。そーゆー人の元へ行って、自分の未来を教えてもらうことについて、、みんなはホントのところどう思うのかな。
先に“未来を知りたい”という心理…。誰にでもあると思うけど、ホントにホントに知りたいのかな。私はもうこれ以上いらない。楽しくないもの。。この程度で良かったと思う😊
魂さんから「次はこれに取り組むんだよ」とか「そっちじゃないよ」とか言われて歩んでいくのは楽しいけど、ゴールの景色が目の前に現れて、道順に色が付いてたら全然楽しくない。だから人は“ぜんぶ忘れた状態”で生まれるんだよね。そーゆーしくみだもんね😃
数年前スピリチュアル業界なるものを知ったのは「風の時代に突入だ!」ってタイミングだった。当時の私は…
「風?…の時代? なにそれ😃??」
てな具合。急な嵐や突風に巻き込まれて、色んなものが吹き飛ばされながらも私は孤独に前進した。
実は神様や天使さんのことはほとんど知らない。(←古事記や日本書紀の神様ならある程度分かる😌✌️)
私を導いてくれたのは、実際に今世出逢った人たちとご先祖様、そして「私自身」。
私に必要なことは都度向こうからやってくる。これからもそうだと信じてる。
やっとのことで今をむかえ、ココロは凪いでいる😌
例えば、、
霊性が一定以上でないと“他人の絵”を視るチカラは与えられない。視えないものを視るチカラは人によって違う。必ずその人にとって最適な能力が備わっているもの。視えないものを視ることには、それなりの責任が伴うからである。だから必要なければ視えない。そもそも視えるか視えないかは“霊性”に直結してる。エゴが強かったり精神性の程度によって範囲は異なってくる。要するに邪(よこしま)な欲がある人に能力が備わると、地球で何が行われてしまうかは想像に難くない。。
知性+精神性である霊性が上がれば自然と能力は開かれる。だから、その能力をあらぬことに使えば、必ずそれなりのペナルティがあるはずなのだ。だって、何に使うか、どこまで他人に使う(教える)かは自らがきちんと判断しなくてはいけないから。そこには霊性以前に品性が問われる。そーゆー世界😌
だから、「いまの私にはこれがベストなんだ」と思うことにしてる。そして自分を見つめ、いまを楽しんで生きる。自分のペースで霊性を磨くということこそ魂の望み✨٩( ᐛ )و🌼✨
Ayumi☽