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ただ書きたいように書いてきました。

前回のエッセイもどきを書いたあと、ふと自分のエッセイ用マガジンの99という数字が目に入った。

……次に書くものは100本目か。

早くも漠然とした達成感というか、感慨深いものが胸に込み上げてくる。noteを始めて9ヶ月と少し、毎日せっせと書いていた時期がある割にはそんなに数は多くない。それでも私は私なりに、99の思考を積み上げてきたんだなあと思う。


けれど、そもそも私の書く“エッセイ”とやら、そのほとんどは世間で言うエッセイの形には届いていないと思っている。なんというかそれっぽいものばかり。私はそれっぽく書けたものたちを「エッセイもどき」と名付けているにすぎない。

エッセイの書き方はおろか、文章の書き方すらまともに学んだことがない私。っていうかエッセイってなんだ、と調べたら一瞬でわかるこの時代に生まれたことには感謝しよう。

エッセイとは、特定の文学的形式を持たず、書き手の随想(思ったこと・感じたこと・考えたこと)を思うがままに書き記した文章のことである。「随想録」ともいう。

Weblio辞書様より
随筆(ずいひつ)とは、文学における一形式で、筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文である。随想(ずいそう)、エッセイ、エッセー(仏: essai[1], 英: essay[1])などともいう。

Wikipedia様様より

なるほど随筆と言われてもピンと来ないけれど、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際云々」もエッセイみたいなものなのか。ということは、私は清少納言大先輩と同じようなことをしている……と考えるのも烏滸がましいので、やっぱり私の書くものは「もどき」に留めておきたくなる。

なんとなく書いてみたものがたまたま選ばれたことですっかり足を奪われてしまったけれど、今もただ書きたいように書きたいものを書いていることには変わりない。きちんとまとまらなかったものもあれば、それっぽくまとめてみただけのものも多い。なんというか、基本的に自信がない。

noteでは「こんなもんか」というものまで選ばれてしまう、とどこかの誰かが言っていた。本当にその通りだと思う。私は始めたばかりの頃に「こんなもんか」を体験してしまったので、99のこんなもんを重ねてきた。それだけだ。


感じたものを感じたままに、書きたいものを書きたいように書くのは楽しい。しばらくこうして書いてきたことで、日常に転がっている何気ないものに心を動かされることが増えた。その感動を小説に落とし込むこともできるけれど、今ここにある現実として描くのも悪くないと思える。

それにしても、どこの誰かも知らない人間のどうでもいい日常を好きこのんで見に来ている方々はとんだ物好きだなと思う。何が面白いんだろう。かく言う私も同類なんだけれども。自分の経験にない心の動きが知れたり、よくある出来事を自分とは違った捉え方をする人を見ることができたりするのは案外面白いものらしい。

まあでも、別にエッセイストですと名乗っているわけでもないし、ただ書きたいものを書くために始めたのは事実だからこれでいいのかもしれない。これからも肩肘張らずに好きなペースで、私の日常と思考を零していこうと思う。あくまでもエッセイ「もどき」であることは変わらず。

そしてこのマガジンはこの記事で100本になる。100本目がこれでよかったのかしら、まあいいでしょう、こんなもんで。

(後で時間があったらお気に入りの記事でも並べておこうかしら、なんて)


(こっそり並べますね。追記です)

最初に選ばれた、というのはこの記事のこと。これがなかったら今まで書いてなかったかもしれないほどには思い入れが深くなってしまった。


かなり刺々しい文章だけど、個人的には本音をぶちまけられてすっきりできた記事。就活関連の記事はこれからまた増えそう。


推し語りの苦手な私が一生懸命熱量を注いで書いたもの。早くも冬季五輪シーズン、推しの供給が目前まで迫ってきている。


これは最近のお気に入り。フィクションとノンフィクションの狭間のような空気感が書けると楽しい。


長くなってきたのでこのへんにしておきます。
こっちのマガジンは私が勝手に選んだおすすめなので、こちらもぜひ。


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