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慈しむべき壁、越えなきゃわたし、

事務所に赤ちゃんがやってきた。生まれたての、ふにふにの、すやすや眠る赤ちゃん。弊社は家族経営の会社で、社長たちの弟夫婦が赤ちゃんを見せに来たのだった。社長たちの父親の前社長も今日は出社していたので、事務所はさながらお正月の実家のような盛り上がりを見せている。

2600gの赤ちゃん、想像以上に小さくてびっくりした。確か私も同じくらいで生まれた。こんなに小さくてか弱かったのか。これからすくすく育っていく赤ちゃんの成長を思うと、人間ってすごい、というか赤ちゃんってすごい、と圧倒される。親戚たちに代わる代わる抱かれても、赤ちゃんは何食わぬ顔で穏やかに眠っていた。

赤ちゃんはかわいかった。かわいい、と思おうとした。自分に強いたからそう感じたのか、自然と湧き出た感情なのかはその瞬間わからなくなった。ただ赤ちゃんがかわいいことに間違いはないはずだった。


昔から、小さい子供が苦手だ。3つ離れた妹がいるのに、子供時代は妹の面倒すらろくに見られなかった。年下の従兄弟は言わずもがな。自分よりも小さな生命体を相手にするたび、その得体の知れない思考や行動に惑わされ、苛立つばかりだった。

妹とようやくまともに接することができるようになったのは、妹が中学生になった頃だった。やっと人間として会話できるのか、ととんでもなく傲慢な気持ちを抱いたことをよく覚えている。だけどそれが正直な感想だった。それまで私にとって、妹は自分のおもちゃを奪う怪物だったのだから。(今では仲良く二人で出かけたりしています。妹の器のでかさよ)

親戚の子供たちもすっかり大きくなり、「小さい子の相手をする」という機会はしばらくなくなっていた。ところが近頃、久しぶりに子供と接する機会が生まれ、私は再び戸惑いの最中にいる。自分が大人になっても、やはり子供は得体が知れない。子供相手のうまさは、それを不可解と捉えるか愉快と捉えるかの違いなんだろうな、と思う。

自分だってついこの間まで子供だったくせに、彼らが何を考え、何を望んでいるのかがわからない。子供扱いというか、子供向けの対応もうまくできない。私自身が周りから子供みたいにお世話されることで生きてきたので、逆の立場になることそのものに抵抗がある。何が正解なのかわからない、私は私のしたいようにしかできない。

子供と接した後は、決まってどっと疲れが出る。いつもの自分とは違う自分を引っ張りださないといけないので、とんでもないストレスになるらしい。私、やっぱり子供向いてない、とそのたびに肩を落とす。


私にできるのだろうか、自分の子供ならまた違うのだろうか。ひとまず結婚というステップを踏むと、自ずと次のことを考えるようになる。

子供は好きではないけれど、いた方がいいだろうな、とは考えている。世の中のためにも、自分のためにも。夫と自分との子供は単純に見てみたいし、ただ子供が苦手なだけで、子育てや子供との関係に不安があるだけで、それさえ除けば順当にステップを踏んでも現状は問題ないのだ。

これは試練だ、と思う。今まで大した壁にぶち当たることもなくすり抜けてきた私の人生への、試練。もし挑む権利があるのなら、私は逃げずにぶち当たらなければいけない。今ぶち当たらずにいつぶち当たるんだ、このままじゃしょうもない人生のまま幕を閉じてしまうぞ。そういう焦燥感だけはある。

こうして目を向けだした、もう少し先の未来のこと。めちゃくちゃ欲しい!というわけでもないのでできなかったら無理せず諦めるけれど、できたらできたで私の人生はがらっと変わるに違いない。その変化に恐れをなしつつ、ちょっと味わってみたくもある。

この程度で望んだら、怒られてしまうのだろうか。でも、親のエゴだなんだと言われがちな昨今だけれど、親のエゴなしで子供なんか生まれるはずがないと、私は思うのだ。エゴを取り除くのはそれからだ、と思う。


ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。