夢と普通と板挟み
自分のやりたいことと、自分の価値観。それらの板挟みになっている。
就活いやだよお、と両親にこぼしたら「国立でフリーターはないやろ〜」といつもの調子で軽く言われた。
まあ、私もそう思う。そう思ってしまう。なにせこのごく一般的な価値観を持った親のもとで20年あまり育てられてきたわけだから。
「一般的」「普通」という価値観は時に人を縛り、摩耗させる。
幼い頃から、普通でいなきゃいけないと半ば脅迫されるかのごとく生きてきた。誰かに強制されたわけではなくて、ただ自分で自分を縛りつけてきたんだと思う。昔はマイペースでおかしな子だったから、私なりに社会に順応しようとしたのだろう。
その結果、みんなと違うものを選ばなくなった。当たり前に用意されている人生のレールを踏み外すことがこわくなった。
でも今、私自身がそのレールに納得がいかない。楽しくない、興味がない、魅力がない。
こんなことなら「普通」にならなきゃよかった。
就活というシステム。うわ、いやだな、と思った。
大学で受けさせられる講座はどれもこれも胡散臭いし、みんながその言葉を素直に聞き入れて忠実に行動に移していく様を見ていると吐き気がしてきた。
気持ち悪い。なんでそんなことを当たり前にできるんだ。
話を聞くに、就職することで自分のやりたいことが実現できる人は多いらしい。自分の力が発揮できるのは働くことなのだと。
就職することで夢が叶う人たち、単純に羨ましい。私だって将来の夢は公務員がよかった。誰にも文句を言われないし、親はきっと喜ぶし、社会的にも一目置かれる。「普通」のレールを進んでいくだけで自分もみんなもハッピー、これ以上のことはない。
それでもやっぱり、みんなと足並み揃えておんなじリクルートスーツに身を包み、「御社が第一志望です」と何十社もの相手に媚びを売っていくスタイル。あれだけは気に食わない、というか理解できない。
しかしどうやらそれが「普通」らしい。受けられるものは受けろ、だめなら次だ、あとはどうだっていい。それって楽しいのだろうか。就活生、ただでさえあんなに苦しんでいるのに、どうしてわざわざ余計に苦しむ道を選ぶんだろうか。
そうは言っても、考えも行動原理も違う赤の他人に対して疑問を抱いたところでしょうがない。きっとみんなは、私ほど就活が嫌だと感じてはいないのだろう。
だって私は断固として働きたくないし、仕事ができない私を雇えば社会のお荷物になってしまうと本気で思っている。それになんとなくで興味がある程度の私よりも、志高くそこを目指している人に道を譲るべきだ。たぶん、みんなにはそういう気持ちがないだけ。
私は私の用意した「普通」に縛られ続けている。みんなと一緒が正しくて、みんなと一緒なら受け入れてもらえる。いまだにそう信じている。
「普通」でありたい私、「普通」に抵抗する私。
自分の主義を貫けるほど私は強くないし、かと言って周りに流れ流されて同じ行動をとれるほど弱くもない。なんというか、中途半端な板挟み。
でもやっぱり、私はやりたくないことにわざわざ時間と労力を費やすことはなるべくしたくない。勉強だって好きではないけど、やってみればそれはそれで楽しいから大学に来ている。好きなことと楽しいことだけでいいです。
だから当分はここで文章を書き続けるだろうし、定期的にモラトリアムにも苛まれる。そんな人生のほんの一瞬を、私は生きている。