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書くことすなわち曲作り

文章を書くことと作曲をすることは、全く違うようでいてどこか似ているような気がする。あいにく曲を作ったことはないのだけれど、ふとそう思ったのだ。

noteを読んでいると、なんだか読んでいて心地いいなあと思える文章がある。それは言葉選びのセンスや文章力にも要因があるだろうけれど、私は文章のリズム感にあるんじゃないかと考えている。


私が文章を書く上で常に意識しているのが、読点の位置だ。一つの文をどこで区切ればリズムがいいか、声に出して読むならどこで切るか。ほとんど無意識の中ではあるけれど、ここだけは譲れないポイントだと思っている。

文章は一つの曲だ。一度も息継ぎの入らない長めの一文はなんだか読んでいて苦しくなってくるし、かといってブレスが多すぎても過呼吸になりそうになる。もちろんカンニングブレスで切れ目のないように演奏することもあるけれど、ここぞというところでは息を合わせたい。歌うように、楽器を吹くように文章を紡いでいけたらと思う。

けれど、似たような文をいつも同じ位置で切るかと言われたらそういうわけでもない。私の好きな文章は変拍子なのだ。普通はそこで切らないだろ、というところであえて切ってみたくなる。そうやって読み手のリズム感を乱してみたいというめんどくさいこだわりがあるのだ。

そしてもちろん、音楽でも変拍子があるとテンションが上がってしまう。演奏する側としては時に腹立たしくもなるけれど、聞いたときにはゾクゾクが止まらなくなる。予想外のリズムに掻き乱されたい。だから、そういう文章に出会った日には興奮が抑えきれなくなる。変態か。

そこでふと思ったのだ。もしかしたら、作曲も文章を書くこともほとんど同じなのかもしれない。文字という音符を並べ、リズムを作り上げ、心の内を表現する。それが紡ぐということなんだと思う。

私が仮に作曲家になったとしたら、文章と同じように変拍子を混ぜた曲を作ってしまうような気がする。曲の好みと文章の好みは、案外一致するのかも。


ちなみに、私が好きな変拍子の代表格は清水大輔さんの曲だ。かつて演奏したときにはなんだこの変拍子!?と圧倒されたけれど、これがまたとんでもなく痺れるのでぜひ聴いてみてほしい。



今回はリズムの話をしたけれど、共感覚持ちの私としては音楽や文章の色合いの好みも共通するのでは、と思っている。私は音よりも文字に色が見えるタイプだけれど、好きな曲の音の並びと好きな文章の文字の羅列はなんとなく被るような気がしている。

音楽も書くこともどちらも「表現」だから、同じなのも当然と言えば当然なのかもしれない。だからこそ両者を切り離して考えるのではなく、一見異なる表現方法を同じものとして楽しむのもこれはこれでありなのでは、なんて思うのだ。



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