【小説】胸とホック
ブラホックが外れた。
ブラインドの隙間から差し込む朝日を背に浴びながら、オフィスの真ん中でうぐぅとか細く声を上げる。ちょうど開放された部分に太陽の熱が触れる。不快だ。外れた瞬間には気づかなかったくせに、いざ外れているとわかった途端不快度数が急激に上がる。
男のそれになぞらえるならば、パイポジとでも言おうか。とにかくそれに匹敵するほど、ホックが外れているかいないかで気分の差は歴然としている。時刻はまだ朝の10時。せっかくの冬の晴れ間だというのに、今日一日がホックひとつで台無しになったような心地だ。
こうなったのは誰のせいだ。──あいつだ。昨夜も予告なしにのらりくらりと家にやってきて、今朝私が慌てて下着を身につけようとしたときに後ろからホックを留めてくれたはずのあいつだ。
今思えば寝ぼけ眼で半分意識がなかったし、私が着替えるのを見届けると満足げな顔をして再び眠りについていた。そんな状態だったから、きっときちんと留められていなかったのだ。朝の慌ただしさの中で確認できなかった、私の失態だ。
トイレに立つふりをして個室で直せたらそれでいい。しかし、私は自力で後ろ手にホックを留めることができないのだ。いつもなら先に胸の前でホックを留め、ブラを180°回してから紐に腕を通すのだけれど。
そもそもブラ着用の儀式なんて、風呂上がりあるいはそれ以外の生まれたままの姿でしか普通行われないものだ。だからこういう状況は想定していなかったし、後ろ手にホックを留める技術もさして必要だとは感じていなかった。しかしすでに服を着ている今、しかも職場というオフィシャルな空間(のトイレ)でわざわざ服を脱ぎ、もう一度あの儀式を繰り返すだなんて! 想像するだけでおぞましい。
とはいえこうして悶々としている間にも、支えを失った我が胸は服の内側で不安げに揺れている。何より本来の役割を果たせないこの下着が気の毒だ。彼らに罪はない。私は彼らのために、そして我が愛すべき胸の維持のために、このミッションを遂行せねばならない。
「お手洗い行ってきます……」
小声の宣誓を終え、勇み足で戦場(トイレ)へと向かう。大丈夫、あなたたちの無念は私が晴らしてあげる。胸だけに。
個室に入ると、しんとした冷気があたりを包み込んだ。反射的に体が震える。これは武者震い? いいえ、ただ寒いだけ。
あれだけ勇者のような風格でオフィスを出てきたというのに、急にこれから自分が為すことに対して羞恥心を抱いてしまう。ただブラを着けるだけだ。それだけなのになぜだか悪いことをしているような気持ちになり、オフィスに戻った瞬間上司に「あなたさっき何やってたの?」と問いただされる妄想を繰り広げてしまうあたり、私の覚悟はまだまだだったらしい。
ええい、ままよ。それでも私は彼らのために戦うと心に決め、ここまでやってきたのだ。今更怖気づいてどうする。勢いに任せて上半身の衣服に手をかけ、ニット、その下のヒートテック、さらにその下の肌着を一気にたくし上げる。瞬間、こぼれる胸とその抜け殻。私は渾身の力で背中に腕を回し、慣れない手つきで対になるホックを探る旅に出る。デスクワークで凝りに凝った体にこの体勢はきつい。さっさと始末せねば。
どうにかホックとホックを見つけ出したものの、その2つをうまく引っかけることができない。そうこうしているうちに肩は悲鳴を上げ出すし、私の喉からも苦痛の喘ぎが漏れそうだ。このままでは何かと誤解されてしまう。トイレの個室で喘ぐ女、こぼれ落ちた胸を添えて。
そうして何度も無理やりガシガシと引っかけているうちに、くっ、と突如何かがはまる感覚がした。そっと両手を放してみると、胸はすっぽりと殻の中に収まっている。私はどうやら勝利を遂げたらしい。小さくガッツポーズを決め、そそくさと個室を後にする。
その後席に着いた瞬間、再びぷっつりとホックが外れ悶絶するはめになることを、この時の私は知る由もない。
「ねえ、今朝私のブラホック適当に留めたでしょ」
帰宅するや否や、私は不機嫌極まりない表情で彼に詰め寄る。あれからは大変だった。トイレから戻ってきた直後にホックが外れたせいでもう一度席を立つわけにもいかず、ようやく昼休みを迎えてトイレに駆け込んでもうまくはめることができず、結局ホックが外れたまま一日を過ごすことになってしまったのだった。
今日は休みらしく家で一日だらりと過ごしていたらしい彼は、けだるげに私の顔を眺める。すると彼はにっと不敵な笑みを浮かべ、
「あれわざとだよ。ちゃんと外れた?」
「は? 何言って……」
「みいちゃんが職場でホック外れてるのに気がついて、一人で慌ててるとこ想像したらなんか興奮しちゃって」
ごめんね? なんて甘ったるい垂れ目を向けられると、思わず言葉に詰まってしまう。こうして許してしまうからいけないのだ。私の覚悟はいともたやすく崩れ落ち、この胸のように宙ぶらりんになっている。
「……っていうか、まさかそういう性癖?」
「かもしれない」
にんまりと満足げに笑う彼のほっぺを思いっきりつねりながら、次からは起き抜けでも自力でホックを留めようと決意を固めた。あとは、後ろ手にホックを留める練習もしよう。
▼あとがき
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