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自分の存在価値

あなたは、「自分は生きているだけで価値がある」と思えますか?

私達は「何ができるか・何をしているか」で価値判断される社会に住んでいる。「生産性」が幅を利かせる社会だから、病気やけがやその他の理由で「生産性」を失うと、人間としての価値まで失ったような心許ない気持ちになる。これは生産性を失った人でないと実感できない思いかもしれない。

病気で働けなくなってしばらくたつ。
10年以上勤めたポジションでそれなりに評価もされていたが、積み上げてきたものはあっという間に崩壊した。休職を経て再就職を試みたものの結果は芳しくなく、いまや以前のポジションは雲の上で手が届かない。前職よりも何段階も落としたポジションでさえゲットできない。

社会での居場所を失くし、気力・体力・職務能力ほか様々な能力を失った私は、以前の私とくらべて人間としての価値が下がったのだろうか?社会から必要とされていないと感じる経験が続くと、自分の存在価値ってなんだろうと考えてしまう。

以前のようにばりばりと働けない自分は、価値が低い存在なのだろうか?

そんなことはないはずだ。頭ではわかっている。
多様性は社会を強くする。いろんな人がいていい。子供、ご老人、精神障害者、身体障害者、難病患者、ひきこもり、生活保護受給者、LGBTQ… 何らかの理由で働けない人がいたっていい。その分、現在働ける状態にある人が働けばいい。いつその役割が交替してもおかしくない社会なのだから。

「働けない人・生産性の無い人=価値がない」とも思わない。
そんな社会はいやだ。人間の真の価値はそんなところにはないはず。価値がない人間なんていないはず。他人に対してはそう思うのだが、じゃあ自分の存在価値は?と自問すると、とたんにわからなくなる。

母親として子供の側にいるだけで価値がある?そうかもしれない。
調子が悪いと昼間でも横になっている情けない姿。エネルギー不足で、週末に家族で出掛けられることはまれ。食事つくりだけは死守しているものの、他の家事は手抜きですます。

うつという病気を理解してもらうのは難しい。自分としては出来る範囲のことはやっているつもりだが、息子の目には「ただの怠け者」として映っているかもしれない。そうだとしたら、とても悲しい。

人は、どうやって自分の存在価値を確固たるものにするのだろう。何者であってもなくても、何が出来ても出来なくても「あなたには価値がある。あなたがあなたらしく生きていてくれるだけで私は嬉しい」と言ってくれる存在がいる(いた)人は、世の中にどれくらいいるのだろう。

そう言ってもらえた人たちは、あるいは面と向かって言われたことはなくても「自分に対してそう思ってくれているだろうと心の底から思える相手」がいるような人たちは、生産性を失っても、自分の存在価値がぐらつくことなどないのだろうか?

「何ができるか・何をしているか」以外のあなたの価値ってなんですか?

DoingではないBeingの部分、あなたの存在価値ってなんですか?

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