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【読書感想】2024年91冊目「関ヶ原(下)」司馬遼太郎/新潮文庫

pp.908--919 (下巻)田丸

北方の脅威がある。自分が江戸を発した留守中、会津の上杉が常陸の佐竹と連合して関東に乱入するのではないかというおそれがあった。
「世に阿呆と逆上せ者ほどこわいものはない」
 と、家康はいうのである。・・・

家康って、本当に慎重派。自分の感情に流されず、周りの状況を的確に判断してみせる。これって会社経営者としても必要なところ。

pp.920--943 桑名の城主、鍋島

東海道は明治後鉄道ができてから琵琶湖畔を通って京都に入るようになったが、明治以前はちがう。
 京から近江の草津へ出、そこから鈴鹿峠をこえて伊勢の亀山に入る。亀山から東へ進んで海浜へ出、四日市を経て桑名に至る。この桑名港(間遠渡)から海上七里、尾張熱田に渡る。・・・

学生時代、東海道五十三次を野宿しながら歩いて旅をしたことを思い出した。この本を読むにあたっても、その時感じたそれぞれの宿場の風景が、昨日のことのように思い出されてくる。本当にありがたい経験だったと、今さらながら感じている。

pp.944--965  九鬼、美濃の城々

三成が大坂へ送る通信のうち何通かはこの城の占領軍の手に奪われ、その内容は東軍側に筒抜けになった。
 が、三成はこの重大すぎるほどの失敗を知ったあとも動じなかった。三成は自分の作戦を信じた。・・・

「通信」これほど経営にとって大切なことはない。現場の情報が分からない。あるいは現場が上部の意思を知ることができないことほど、危ういことはない。社員に対して、考え方を、耳にタコができるくらい、何度もしつこく語っていく必要性を感じている。

pp.966--998  使者、岐阜中納言

茂助は膝を正し、背筋を立て、咳ばらいとともに声高に語りはじめた。
(あっ)
 と、井伊直政は驚いた。あれほど念を入れて教えこんだのに、茂助がしゃべり出したのは江戸で家康にいい含められた例の口上であった。・・・

家康が使者に選んだのは、頭の悪い人間だった。頭が悪いからこそ、最初に教えこまえれた口上を述べてしまった。会社経営でも同じようなことがある。下手に頭が良い人間よりも、失礼ながら悪い人間の方が役に立つことが多いような気がする。純朴さは、人間の価値としては賢さよりも勝ることが多いと僕は思う。

pp.990--1038 先陣、渡河、奇妙人、江戸発向

冒険ぎらいの老人は、戦略の冒険性をすべて消してゆき、勝利がほとんど事務化するほどの状態にまで事を運び、時を待ち、しかるのちに腰をあげようとするのである。・・・

徳川家康のこの性格、経営者である僕にも共通する部分があるように思う。僕って一見冒険家のように見えるかもしれないけれど、実は、準備を結構やっている。臆病な部分も持っている。

pp.1039--1051 美濃大垣、合渡川

(石田)三成の感情のなかでは、敵こそ悪いのである。かれらは日本を二つに割った大会戦なら、当然そうあるべき法則を知らないのである。・・・

経営は数字をよく見ろと父から言われていた。数字はウソをつかない。(数字を誤魔化そうとする人間はいるが)戦争にしても、経営にしても、個人的な情緒で動いてはいけないのである。

pp.1052--1085  愛知川、焦燥しょうそう

秀吉はひとに利を啖わせることをもって天下の英雄豪傑を蕩した。かくて天下の人心は汲々として利をのみ思い、茫々として道を思わぬ。利で得た天下は利が散ずるときにほろぶ。・・・

会社で言えば、地位や給料というところだろうか。考えさせられる。「道」を思って会社に残ってくれる人が本当にこの世の中にいるのだろうか。いや、いることを信じなければいけない。

pp.1086--1119 一咄斎、信州上田城、密書

家康は三島ノ宿をすぎたあたりから隠密行動をとり、この大軍のなかに自分が居ない体を見せてきた。たとえば家康の所在を証拠だてる馬印は箱におさめて秘匿し、道中用いる駕籠も外装の質素なものを使いつづけてきた・・・

これだけブログに書いているのに、僕は海外にでも行っているかのうように言う人がいまだにいる。いったいどういうことだろう(^^)逃げ隠れもしないのに。見えなければ見えないほど、人は、想像で相手のことを大きく判断する。なんだか面白い。

pp.1120--1143 家康着陣、関ヶ原へ

東海道の宿場はことごとく人馬で満ち、家康直轄の三万二千の大軍が旌旗をひるがえしつつ西へ行軍しつづけたのに、西軍ではこれについてなんの情報も得なかった。・・・

企業にとっても1番大事なのは相手の出方に対する情報だ。だから今回の取引先の吸収合併の件は、自分としても少し手薄だったと反省している。斥候こそ、勝負の分かれ目。取引先の情報を集めることに、もっと力を注がなければならない。

pp.1144--1167 牧田街道、松尾山

「貴殿は、よほど死がおそろしいと見えますな」と、つい、その悪癖であるとげのある言葉が出た。三成のこの種の言葉がどれほど敵を作ってきたか、まだ三成自身は深刻にはわかっていない。・・・

経営者にとって、社内外に敵を作らないということほど、大事なことはないように思う。時には負けたように見せることも必要であろう。そうして相手に警戒されないようにすることが大事。

pp.1168--1191 霧の中、南宮山

自分に有利な、自分にとって光明になる計算しかできないのである。表裏あわせ読むという能力に、この男ほど欠けている人物もすくないであろう。・・・

物事の両面というものを見なければ。ちょうど無門関の二僧巻簾という段を素読している。良い悪いの一面しか見なければ、結局大きな間違いをおかすことになる。

pp.1192--1226 混乱、人の和、霧霽きりはる

戦争とは所詮主将の性格の作品であろう。しかし、三成はそれを思わず、 (自分が百万石の身上であれば)と、歯がみする思いでそれをおもった。・・・

会社の評価は決算で利益を出せるかどうか。どんな言い訳もできない。それはトップの有り様そのものだ。

pp.1227--1273 爪を噛む、叛応はんおう、石田崩れ、烏頭坂

僕は関ヶ原をこの足で歩いたことがある。西国三十三ヶ所の途中、はるかに琵琶湖から岐阜への道中に、ちょうどふるさとの府中への道のように、左右から山並みが迫ってきた部分があった。そこが関ヶ原だった。

天下分け目の戦いがあった、その場所で、僕は言いようもない、怨念のような気配を感じて、そこにあまり長くは留まれなかった。裏切りがなければ、徳川家は滅んでいたかもしれない。

pp.1274--1284  藤川台

如水は苦笑し、吐きすてるように、 「右手の一件は、相わかった。しかしそのとき、そちの左手はなにをしていたのだ」といった。左手でなぜ家康を刺し殺さなかったのか、というのである。

黒田如水(官兵衛)の息子は、家康に褒められた。しかし、その息子は官兵衛ほどの器の人間ではなかった。

pp.1285--1321  古橋村、六条、下河原

(義というものは、あの社会にはない)関ケ原の合戦なかばにして三成はようやくそのことを知った。利があるだけである。人は利のみで動き、利がより多い場合は、豊臣家の恩義を古わらじのように捨てた。小早川秀秋などはその最たるものであろう。権力社会には、所詮は義がない。・・・

僕も最近会社の中で同じようなことを感じている。でも、万に一人、億に一人だけでも、身近にそういう人と会えたことが、僕にとっての唯一の救いだ。

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松坂 晃太郎  / MATSUSAKA Kotaro
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